で、たぶん哲学という学問業界というか、そんなものが成立して、
そこに安住してしまうことで、また、その業界内で通じるような技芸を磨くことが、
かえって哲学することの妨げになってしまっているような、
そんな気がするのである。
思考のダイナミズムがなくなるのだ。
しかし、このように語る人の「哲学」がほぼ例外なくつまらないのは何故でしょうか?少数の専門家しか読まないような精緻な読解と思考が「大声で語られる哲学」に劣るとは思えません。ここには根本的な勘違いがあるような気がしてなりません
- 作者: 吉田公平
- 出版社/メーカー: たちばな出版
- 発売日: 1995/04/01
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150604#1433414220(学びて思わざれば、則ち罔し。思いて学ばざれば、則ち殆し。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071228#1198896944(思惑を基準とするのでなく、事柄自体のあり方を基準として吟味しようと熱心につとめながら、あたかも戦場におけるがごとく、吟味のためのあらゆる論駁を切りぬけ突破して、すべてこうした中を不倒の言論をもって最後まで進みおおせる)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1199095513(私どもはどうも辞句を詮索するほうですが、おそらく明治以前の人たちは漢文を安岡先生のようなそういう読み方をしたんだと思います。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1199095514(で、講釈がね、簡単にいうと、安岡先生のような講義なんですよ。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1199095862(哲学的問答法の心得があると君が呼ぶのは、それぞれのものの本質を説明する言論を求めて手に入れる人のことではないか。)