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物に本末あり、事に終始あり  〜物事の本質について〜 - 中村 雄介 | ブクログのパブー

物に本末あり
事に終始あり
先後する所を知れば
すなわち道に近し

» 物に本末あり、事に終始あり。先後するところを知れば、則ち道に近し。 山田方谷マニアックス
『大学』の書き下し文と現代語訳:6

『大学』では学問の本質を“明徳”に置いており、明徳を明らかにすることで人民も徳に近づき、今までと異なる新たな存在である“新民”になるのである。“至善”に止まることは物事の始めであり、その結果としてさまざまな善きものを得ることが物事の終わりである。こういった物事の終始・先後(順序)を知ることが真の大学教育にも通じている。

親民説と新民説

朱子がもっぱらこれを四書の一つとして世に弘め、古来『礼記』中に伝わってきておる『大学』を秩序立て、組織だてて改篇した。そのときに、古本大学では「親」の字になっておるのを、「親」は十一真の韻で「新」に通ずるところから、「新」の字を正しいとするとして代えたのであります。すなわち「民を新にするに在(あ)り」。ところが王陽明は、「なにもわざわざ新の字に改める必要はない、古本大学のとおりの『親』でよろしい」と主張いたしました。

「民を新たにするに在り」という考え方も、もとより立派に議論が立ちます。この宇宙・人生というものは、日々夜々創造変化、常に停滞することがない。「日に新たに日々に新たなり」というのが自然の相であるから、停滞固定は造化に反する。我々は常に自己を新しくしてゆかねばならない。

親民か新民か?(上から目線はやめてほしい) ( その他人文科学 ) - 論語通信 - Yahoo!ブログ

大人となるための学問の道は、明徳(生まれながら与えられている徳)を発揮するところにある。広く多くの人と相親しむところにある。至善(最高の善)に止まるところにある。

そこでやはり、
「親」を「新」と読み替えず、
そのまま「親」として、「民に親しむ」と読むべきと思います。

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