【田中美久】 こんばんみくりん(o^^o) さしこちゃんの生誕祭 終わりました☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆ 美久が誕生日にあげた、Tバック履いててくれて嬉しかったです♡… https://t.co/axUbwmmmcH pic.twitter.com/CQDf2Wkwqr
— HKTぐぐたす (@hkt_ggts) 2015, 12月 10
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151203#1449139148
神志那結衣(HKT48)のトーク|新世代トークアプリ755(ナナゴーゴー)
後ろの結衣もスタンプで隠してくれればよかったのに!笑
神志那結衣(HKT48)のトーク|新世代トークアプリ755(ナナゴーゴー)
自分の顔を確認してた^ ^
黄山谷(こうさんこく)曰く、「士大夫三日書を読まざれば則(すなわ)ち理義胸中に交わらず、便(すなわ)ち覚ゆ、面目憎むべく、語言味なきを」と。
達人の言うこと、真理を学んだ人の言うことは古今東西、みな一如である。
こういうのが本当の志であり、これが本当の学問であります。そういう学問は何も学校に入らなくてもできるのだ。こういうものをしみじみ読み、考え、味わってゆくと、それこそ「面目愛すべく、敬すべく、語言味わいある」に至るのである。
こういう学問をしないと、いくら金をこしらえても、また出世しても「面目憎むべく、語言味わいなし」ということになって、心ある者から「ああつまらん奴だな」と思われることになる。まだ下っ端におる間なら、つまらん奴だと思われてもなんのことはないが、有力な地位にある人間が心ある者から軽蔑されるようになると、これは弊害がひどい。その意味において、今の日本の指導階級というものは恥ずべき人が多い。そういうところにも日本の弱点がある。
「文献」というのは「記録と人物」のことである。
我々はこの文献を検(しら)べなくてはならないが、それはただ記録を読むだけではない。すぐれた人を通じての文献ということでなければならない。すぐれた人物を通じて初めてその文が活きてくる。これを諸君は間違えないようにしないといけない。
自分が神であることを自覚するには、鏡「かがみ」の真ん中の「が(我)」をとることだと言われています。