#31 真田丸スペシャル・沼田 真田は沼田でどんな城下町をつくった? | タモリのブラブラ足跡マップ | ブラタモリ - NHK
天正10年(1582年) - 3月、織田氏・徳川氏連合軍の武田領侵攻により武田氏が滅亡し、その功により、織田家臣・滝川一益が武田遺領のうち上野国一国と信濃佐久郡・小県郡を与えられる。これにより、沼田城は滝川家臣・滝川益重の城となる。同年6月の本能寺の変を経て、武田遺領をめぐる「天正壬午の乱」が発生する。天正壬午の乱において沼田城は後北条家に降った真田昌幸の支配となり、徳川氏と後北条氏の間で沼田領帰属問題が持ち上がるが、昌幸はいずれの提案も拒否し、上杉氏の傘下に入る。これは後年の徳川氏との上田合戦や後北条氏による度重なる侵攻を招くことになるが、いずれも退ける。
1589年 - 豊臣秀吉の裁定により後北条氏の支配となり、猪俣邦憲が再び城代となる。しかし、同年に邦憲が昌幸の名胡桃城を略奪したことで、豊臣氏による小田原征伐が起こる。
1590年 - 北条征伐の戦後処理において、沼田城は昌幸の長男・真田信幸が支配する。
1597年 - 信幸が城郭整備をする。
1600年 - 関ヶ原の戦いにて、東軍についた信幸(以降信之に改名)が上田領も継承し、沼田と合わせ9万5千石の上田藩として立藩する(信之は引き続き沼田城を本拠とする)。
平坦な部分と傾斜が急な崖とが交互に現れ、平坦な部分を段丘面(だんきゅうめん)、急崖部分を段丘崖(だんきゅうがい)と呼ぶ。段丘面は地下水面が低く、段丘崖の下には湧水が出ていることが多い。
利根川の支流片品川(群馬県沼田市)、荒川が形成した秩父盆地(埼玉県秩父市)や多摩川が形成した武蔵野台地の段丘、天竜川(伊那谷と呼ばれる一帯、但し断層による段丘もある)、信濃川(新潟県中魚沼郡津南町)の段丘が有名であり、特に9段にも及ぶ津南町の段丘は日本一の規模といわれる。そのほか仙台市の市街地も広瀬川により形成された河岸段丘上にあり、官庁街にある勾当台公園では段丘崖を利用した滝噴水や階段が見られる。これらを「はけ」と呼ぶ事があり、『武蔵野夫人』はこの説明から始まる。