まず「繰り返して読みたい本」ってそんなにはない。ところが、繰り返して読む本には、よむたびに発見がある。「一度だけ読む本」がどんどん家の中に増えて、そこからはみ出していく中で、果たして「蔵書」に何の意味があるのか。それって、背表紙をズラリと並べることへの満足だけなんじゃないか。
一方で、僕は「聖書」一冊も満足に読んでない。これから頑張れば読むことは可能かもしれないが、そもそも聖書は「一通り読む」ものではない。その言葉から、何を読み取り考えるべきか、ということは千年の単位で議論されてきた。そして、今でも聖書一冊に一生を費やす聖職者の方がいる。
そう考えていくと、人はどこかで「大切な本を繰り返し読む」ということの価値に気づくのではないだろうか。もちろん、若い時からそうしている人もいるのだろうが。大学図書館の地下書庫で「どんな人も一生かけてこれだけの本を読めるわけないだろう」と言う当然の事実に気づいた時から、それは自問されていたのかもしれない。
あと、最近になってわかってことがある。それは、多読の人が必ずしも思慮深く、人間としての深みがあるとは限らないということだ。若い時には「博識の人はすごい」と単純に思っていた。
多読を全く否定するわけではないが、読書量を誇るような人は、単にインデックス化された「歩くデータベース」のようになっていることの方が多い。一方で、牧師の方の深い話に接した時に、「一冊の本」の底知れない力を感じることもある。
偉大な思想家を忠実に文字通り解釈するのではなく、自らの創造的な思索の為の対話相手として読む読み方がある。そのような読みは思想史に時に爆発的な影響を与える。それは単なる誤読や読み込みではない。むしろ、深い問いをテクストに投げ込むことによって、テクスト自体が新たな輝きを発し始めるのだ
— 山本芳久 (@201yos1) 2016年3月4日
#哲学部
活学としての東洋思想 / 安岡正篤 <電子版> - 紀伊國屋書店ウェブストア
「本当に生きた学問とは、書物に読まれるのではなく、自分の心の方が書物を照らす『活学』でなければならない」と説く著者は、儒・仏・道から史書・兵書におよぶ古典を自由自在に駆使しながら、東洋思想の叡智を本当の意味で人生や仕事に活かすためのヒントを説き明かしていく。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130905#1378379673(真剣に求める。すると、その答えが読む本の中に、会う人の言葉に、また出会う一つ一つのことに、次々と見つかるのです。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1198403419(内面的必然から辿っていく)