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鳥居元忠 - Wikipedia

天正13年(1585年)、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした上田合戦では、大久保忠世平岩親吉と共に兵7,000を率いて上田城を攻撃するものの大きな損害を受け、撃退される。

戸石城 - Wikipedia

東太郎山の尾根上に築かれ、南の上田平や北東の真田郷を一望できる位置にあり、南東には北佐久を望むことも出来る。西側には神川が南西へ流れ、千曲川と合流。

山城 - Wikipedia

城は、防御に有利な地形に築くことが望ましく、険しい山はその条件を満たすが、住むには不便であり、守るべき対象である人の居住地から離れている。したがって、山城は防御専用として造られることが多かった。城主は、平時には麓に住民と共に住み、敵が来襲すると山上の城に立て籠もる、といった使い方がなされたようである。

上田合戦 - Wikipedia

第一次上田合戦

この戦いに限り、神川合戦、上田・神川の合戦とも呼ばれる。

天正13年(1585年)には家康が甲斐へ着陣して昌幸に沼田領の北条氏への引き渡しを求めるが、昌幸は徳川氏から与えられた領地ではないことを理由にして拒否し、さらに敵対関係にあった上杉氏と通じた。同年7月、浜松に帰還した家康は昌幸の造反を知ると八月に真田討伐を起こし、家臣の鳥居元忠大久保忠世平岩親吉ら約7000の兵を真田氏の本拠・上田城に派遣する。


徳川軍は甲斐から諏訪道を北国街道に進み、上田盆地信濃国分寺付近に兵を展開。これに対して真田方は約1200人であったと言われ、昌幸は上田城に、長男の信幸は支城の戸石城に篭城した。また支城の矢沢城には、昌幸の従兄弟矢沢頼康が上杉の援兵と共に篭城した。


閏8月2日に上田城に攻め寄せた徳川方は、二の丸まで進むがここで反撃を受け撃退される。更に後退の際に城方の追撃を受け、戸石城の信幸も横合いから攻めるに及びついに壊乱し、追撃戦には矢沢勢も加わり神川で多数の将兵が溺死した。この真田方の地の利を活かした戦法により、徳川軍は1300人もの戦死者を出したと言われる。一方、真田軍は40人ほどの犠牲ですんだ。


翌日、徳川方は近隣の小豪族で真田氏に味方した丸子氏(後、真田氏に臣従)の篭る丸子城を攻めるが、これも要害と頑強な抵抗に阻まれ攻略できず、以後20日間程対陣を続ける。この間に上杉勢援軍との小競り合いや更なる増援の報に接し、家康は援軍(井伊直政(一部部隊は当初より参陣)、大須賀康高松平康重の5000)を出すと共に一時撤退を下令、これを受け徳川軍は28日に上田より撤退した。その後も、大久保忠世ら諸将は小諸城に留まり真田勢と小競り合いを繰り返すも、11月には譜代の重臣石川数正が豊臣家に出奔する事態に至り、完全に撤退することになる。

堀田興重 - Wikipedia

通称は作兵衛。