https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com


 たとえば、中世ヨーロッパや古代エジプトではマイナス金利の経済システムが採用されていました。マイナス金利ということはつまり、銀行にお金を預けるとどんどん価値が目減りしてしまうことを意味しています。


 したがって、こういう社会では現金を持ち続けていることは損になります。当然のことながら、現金は入ってくると同時になるべく他のものと交換しようという誘因が働くことになります。


 では、どのようなものと変えるのがいいでしょうか。食べ物?いや、食べ物は難しい。一度に食べられる量には限りがありますから、保存が必要になります。しかし当時は冷蔵庫もない時代で、保存できる量にはおのずと限りがあります。


 では、モノにするべきでしょうか?モノなら何がいいでしょうか?こうやって考えていくと、やがて誰もが同じ結論に至ることになります。そう、長いこと富を生み出す施設やインフラにお金を使おうという結論です。


 このような考え方に則って進められたのがピラミッドの建築に代表されるナイル川の灌漑事業であり、中世ヨーロッパでの大聖堂の建築でした。この投資が、前者は肥沃なナイル川一帯の耕作につながってエジプト文明の発展を支え、後者は世界中からの巡礼者を集めて欧州全体の経済活性化や道路インフラの整備につながっていったのです。


 リベラルアーツを、社会人として身につけるべき教養、といった薄っぺらいニュアンスで捉えている人がいますが、これはとてももったいない。リベラルアーツのリベラルとは自由という意味です。アートとは技術のことです。つまり「リベラルアーツ」というのは、「自由の技術」ということです。


 では、ここでいう「自由」とは何なのか?元々の語源は新約聖書ヨハネ福音書の第8章31節にあるイエスの言葉、「真理はあなたを自由にする」から来ています。「真理」とは読んで字の通りで「真の理(=ことわり)」のことです。


 時間を経ても、場所が変わっても変わらない、普遍的で永続的な理(=ことわり)が「真理」であり、それを知ることによって人々は、その時その場所だけで支配的な物事を見る枠組みから自由になれる、といっているわけです。


 その時その場所だけで支配的な物事を見る枠組み、それはたとえば「金利はプラスである」という思い込みのようなものです。


 つまり、目の前の世界において常識として通用して誰もが疑問を感じることなく信じ切っている前提や枠組みを、一度引いた立場で相対化してみる、つまり「問う」「疑う」ための技術がリベラルアーツの真髄だということになるわけです。

 リベラルアーツはまた、専門領域の分断化が進む現代社会の中で、それらの領域をつないで全体性を回復させるための武器ともなります。現在の社会はテクノロジーの進化に引きずられるようにして変化を余儀なくされていますが、テクノロジーの進化は必然的に専門分野の細分化を要請します。


 このとき、特定領域における科学知識の深化とリベラルアーツを二項対立するものとして置けば、リベラルアーツに出る幕はありません。


 しかし一方で、どんどん専門分化する科学知識をつないでいくものとしてリベラルアーツを捉えればどうか。本書の冒頭で指摘した通り、いま足りないのは領域の専門家ではなく、そこを越境していけるクロスオーバー人材です。そして、この要請はますます強まっています。


 なぜなら、専門化が進めば進むほどに、個別専門の領域を超えて動くことのできる「自由な人」が求められるからです。そしてこの「自由さ」を与えてくれる唯一のものが、リベラルアーツだということです。


 領域を超えるというのは、リーダーにとって必須の要件と言えますよね。なぜなら領域の専門家でい続ければリーダーになることはできないからです。リーダーとしての器を大きくしていくということは、そのまま「非専門家」になっていくということでもあります。

 世界の進歩の多くが、領域外のシロウトによるアイデアによってなされています。米国の科学史家でパラダイムシフトという言葉の生みの親になったトーマス・クーンはその著書『科学革命の構造』の中で、パラダイムシフトは多くの場合「その領域に入って日が浅いか、あるいはとても若いか」のどちらかであると指摘しています。


 領域を横断して、必ずしも該博な知識がない問題についても、全体性の観点に立って考えるべきことを考え、言うべきことを言うための武器として、リベラルアーツは必須のものと言えます。