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古くから淀川(上流は瀬田川)が近江国から摂津国の大阪湾へと注ぎ、滋賀を通る主要街道は全て京都へと続く。この水運と陸路、西廻り航路が開発される江戸時代の前期までは非常に重要だったのだ。

滋賀は古くから歴史の中心地であった。667年には天智天皇によって近江大津宮が置かれ、古代最大の内乱である壬申の乱瀬田の唐橋を舞台に決着を見た。


政治だけではない。最澄天台宗の総本山・延暦寺比叡山におき、紫式部石山寺源氏物語の着想を練った。宗教・文化に果たした役割も小さくない。


前述の水運、そして京都から越前や美濃へ抜ける街道も通り、交通の要衝として栄えた。その重要性は信長も立証している。足利義昭を奉じて上洛した信長は、義昭から副将軍の職を勧められたが、辞して代わりに大津・草津と堺に代官を置く権限を求めている。大津・草津は湖上交通の要衝だ。堺と並ぶ重要拠点であったことが伺える。そして、信長はその後近江の安土に居城を築いた。

一方で、主要街道沿いに生まれた「三方よし」の近江商人が、江戸時代に日本全国に散らばって活躍した。

今自分が暮らしている東京でも、近江商人の足跡はしっかりと見て取れる。日本橋に本店を構える高島屋である。江戸後期、京都で「高島屋」という米穀商を営んでいた飯田儀兵衛は、近江国高島郡(現在の高島市)出身の近江商人だった。そこに婿養子に入った飯田新七が「高島屋」の屋号を継いで、古着と木綿を扱う店を始めたのが百貨店「高島屋」の始まりなのだ。要するに、近江商人ののれん分けである。今でも毎年春に「大近江展」なる滋賀の物産展が行われていることからも結びつきの強さが伺える。

京都は、京都を出発点とする各街道を持ち、四方八方から人が来るのに対し、大阪は船運でつながる水路の京都滋賀と、海路の西国各地との行き来が容易なのだ。

正月三ヶ日には250万人以上が訪れる関西屈指の初詣スポット、住吉大社にその答えがある。境内にある「誕生石」という石の集まりだ。源頼朝の寵愛を受けた丹後局がここで出産したという言い伝えによるスポットである。その、丹後局が産んだ子供こそ、薩摩を長きにわたって治めた島津家の始祖・島津忠久なのだ。現在も、島津家では住吉大社で薩摩琵琶の奉納を行っている。大阪は島津発祥の地として、今に至るまで大事にされている。

京都で東大・京大・阪大に多くの合格者を輩出しているのが、洛南・洛星高校といった私立高校だ。いずれも宗教が背景にある。洛南の前身は真言宗教育機関洛星満州国にあった、カトリックの修道会が運営していた中学校に端を発する。


一方で、滋賀は公立高校が強い地域である。代表的な高校の歴史を見てみよう。膳所膳所藩藩校「遵義堂」の跡地に建てられている。また、彦根東は18世紀末にできた彦根藩藩校の流れをくんでいる。立地としても、国宝である彦根城の、お堀の内側に位置している。つまり、いずれも江戸時代以来の「藩」の流れをくんでいる。

客観的に都道府県ランキングを再び見ると、注目すべきはやはり奈良であろう。東大ではお膝元東京に続き2位、京大・阪大ではお膝元を抜いて1位である。その要因は東大寺学園西大和学園の二強の私立だ。


東大で見ると、東大寺学園が26人、西大和学園が35人という実績を誇る。東大寺学園は大正時代に建てられた、元々僧侶の子弟を教育するための学校である。このあたり、酒屋の杜氏(とうじ)の子弟の教育を目的に設立された灘と似ている。しかし、東大寺と言えば古くは南都六宗、さらに真言・天台を合わせた「八宗兼学」の場であり、学問をする場としての歴史は他を圧倒している。対照的に、西大和学園は、戦後に地元の有力政治家が建てた新しい学校である。途中で「日本一の進学校」を目指して改革を行い、一気に実績を伸ばした。


藩校由来の県立高校を有する滋賀とは好対照をなしている。前項で述べた藩校のような地域との結びつきが、強くないのだろう。実際、東大寺学園出身者によると「大阪府民と奈良県民が同じくらい」いたという。西大和学園出身者も「5割大阪、2割兵庫、奈良は2割弱という印象」と語る。奈良県外でもしっかりとブランドを築いているのだ。

神奈川の実績を引っ張るのが栄光学園聖光学院の二校である。一方の埼玉のトップは県立浦和である。私立が強いために差が生まれているのは歴然だ。ではなぜこうした私立高校が埼玉ではなく、神奈川にあるのか。


それは明治時代、外国人が来たのが横浜だったからだと考えられる。栄光学園聖光学院はいずれもキリスト教系の学校であり、外国人による寄与が大きい。実際、栄光学園の母体であるイエズス会の学校は、東京(上智大学)と、開港地である兵庫(六甲学院)、そして神奈川にあるのだ。一方、聖光学院はまさに居留地があった山手地区に立っている。

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180110#1515581090

島津忠久 - Wikipedia

島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。ただし、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はいない。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170109#1483958249