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円融天皇の第1皇子。母は藤原詮子藤原兼家娘)。兄弟姉妹はおらず、従兄弟に前帝・花山天皇と次帝・三条天皇がいる。

永観2年(984年)8月27日、花山天皇皇位を継いだ時、皇嗣に立てられる。寛和2年(986年)6月23日(8月1日)、花山天皇が内裏を抜け出して出家したため、数え年7歳で即位した。これは孫の早期即位を狙った藤原兼家の陰謀といわれる(寛和の変)。皇太子には従兄にあたる居貞親王三条天皇)を立て、摂政に兼家が就任した(後に関白)。

永祚2年(990年)正月、太政大臣となった兼家の加冠により元服が行われるが、程なく兼家は病死する。兼家の死後は長男の道隆が引き続き外戚として関白を務め、一条天皇の皇后に娘の定子を入れ、中宮を号させるが、長徳元年(995年)に病没。代わりに弟の道兼が関白に就任するがわずか7日後に没し、道隆の子伊周との争いに勝利した道隆・道兼の弟道長が、姉で天皇の生母・詮子の推挙を受け、内覧となって実権を掌握した。道長は先に中宮を号していた定子を皇后宮と号し、娘の彰子も皇后に立てて中宮を号させる事で一帝二后の先例を開いた。

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冷泉天皇の第二皇子。母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子。花山天皇の異母弟。

花山天皇の寛和2年(986年)6月23日、花山天皇は出家し懐仁親王(7歳・一条天皇)に譲位した。一条天皇は円融上皇と女御藤原詮子(超子の同母妹)の子であり、居貞親王の従弟にあたる。同年7月16日、11歳の居貞親王は兼家の後押しで東宮となる。冷泉・円融両統の迭立に基づく立太子であったが、東宮の方が天皇より4歳年上であったため、「さかさの儲けの君」といわれた。この立太子の理由は次の様に考えられている。すなわち、兼家は冷泉・円融の両天皇に娘を入内させていたが、円融天皇と不仲であったこと、冷泉天皇は超子との間に3人の親王を儲けていたことから、冷泉系をより重要視していた。また、孫(一条帝)は天皇、娘詮子は皇太后となり、自らは摂政となった兼家の自己顕示欲によって、もう一人の孫である居貞親王東宮とされた。

一条天皇の朝廷では、外祖父の兼家の死後、外舅(母の兄弟)にあたる道隆・道長の兄弟が先後して政権を掌握した。東宮の居貞親王後宮には、初めに永祚3年(989年)兼家の娘で叔母に当たる藤原綏子が入った。正暦2年(991年)藤原済時の娘娍子が入り、同5年(994年)には敦明親王を儲けた。続いて正暦6年(995年)道隆の娘である藤原原子が入内した。しかし、綏子と原子は早世してしまい、一時期は東宮女御は外舅の身内でない娍子のみになってしまった。寛弘7年(1010年)、道長の次女妍子が入内した。なお、妍子は敦明親王と同年の生まれである。

寛弘8年(1011年)危篤状態の一条帝は崩御数日前に譲位し、36歳の居貞親王はようやく即位することとなった。皇太子には中宮藤原彰子の子、敦成親王後一条天皇)が立った。

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