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東京都知事選挙に向けて一阿(97歳)が伝えたいこと/島田叡元沖縄県知事の話

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第二次世界大戦末期、沖縄戦時の知事であり、「島守」として知られる。座右の銘は、「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。

兵庫県立第二神戸中学校(神戸二中、現・兵庫高等学校)、第三高等学校を経て、1922年(大正11年)に東京帝国大学法学部へ入学。中学・高校・大学と、野球に熱中し、神戸二中時代に第1回全国中等学校優勝野球大会に出場。東大時代は野球部のスター選手(外野手)として、また、ラグビー部とも掛け持ちするなど、スポーツマンであった。この時、学生野球に参加した経歴から、野球殿堂博物館に建立された戦没野球人モニュメントには島田の名前が刻まれている。

1945年(昭和20年)1月10日、沖縄県知事の打診を受け、即受諾した。各官庁と折衝すると称して東京に頻繁に出張していた前任者の泉守紀には、出張中にもかかわらず、香川県知事の辞令が出された。沖縄への米軍上陸は必至と見られていたため、後任者の人選は難航していた。沖縄に米軍が上陸すれば、知事の身にも危険が及ぶため、周囲の者はみな止めたが、島田は「誰かが、どうしても行かなならんとあれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺は死にたくないから、誰か代わりに行って死んでくれ、とは言えん。」と言って、日本刀と青酸カリを懐中に忍ばせながら、死を覚悟して沖縄へ飛んだ。

現地に赴任するに至った背景には、佐賀県警察部長在任中、旧佐賀城西濠端にある龍泰寺で開かれていた「西濠書院」という勉強会に参加したことがきっかけとされる。島田は、その書院を主宰していた住職・佐々木雄堂に出会い、『葉隠』と『南洲翁遺訓』について学び、その思想に深く感銘を受けたとされる。後に、佐々木は沖縄に赴任する島田に対し、葉隠と南洲遺訓の2冊を贈り、島田はこの2冊を携えて「敢然と沖縄に赴任する」旨を佐々木に書き送っている。

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#神戸二中

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戦前には、東京府立一中(現:東京都立日比谷高等学校)、愛知一中(現:愛知県立旭丘高等学校)と並び、「一中御三家」と称された。

#神戸一中

世に五交というものがある。
一を勢交(勢力者に交を求める)。
二を賄交(財力ある者に交を求める)。
三を談交(能弁家に交を求める)。
四を窮交(困窮のため苦しまぎれに交を求める)。
五を量交(利害を量[はか]って得な方に交を求める)。

いずれも恥ずべきもので長くは続かぬが、かく挙げてくれば真の交わりというものも人世には得難いものである。

隋處に主と作(な)れば立處皆眞
臨済録

この禅語を座右の銘としている安岡教学所縁の人々をしばしば見受ける。

如何なる処に置かれても、また何事をするにしても、さまざまな束縛に囚われることなく、その場その時の主人公になって、すべてを自由に使いこなしていく、そうすれば、その場その時がそのまま真実の妙境だ。

という意味で使われている。

活学百言「58.杏林(きょうりん)」

医界を「杏林」という。神仙伝に拠るに、三国の時代、呉に董奉という人があって、廬山に住んでいた。彼は人の為に病を治療して、少しも報酬を受けなかった。ただ病気の重かった者には杏の木を五本、軽かった者には一本を庭に植えさせた。それが長い間にいつか十万株にもなって、沢山な杏が取れる様になった。
そこで彼は倉を立ててその実を収穫し、杏を買いたい者は穀物で「杏一杯に穀一杯を出すべき」という値段の札を出した。そして彼はその得る所の穀物を貧民に施してやった。
ところが人間はあさましいもので、中にはその杏を誤魔化して沢山せしめようという不届な奴も出てきたが、そんな奴が来ると杏の林から猛虎が現れてそいつを追払ったそうである。
世の中は変っても、医師はやはり根本に於て董奉の様な心持で患者にふさわしく患者から礼を取り、患者もそのつもりでお礼せねばなるまい。けれども董奉からして希になった今日、虎に逐っ払われる様な人間が無暗に多くなった今日、診療界も亦殺風景なことである。せめてお互に都塵の中に在りながら、潜かに出来るだけゆかしい各方面の好人と交わって風流な世界を開かねば生き甲斐が無いではないか。


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