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7月20日「人物の深浅」

物を評するは己を告白することだ。深い人は何でもないことを深く解釈し、詰らぬ人間は深いことを浅く解釈する。
心暗ければ世暗し、心明るければ世明るし、心深ければ世深し、心浅ければ世浅し。

「自靖自献」

“靖献”はわれわれの人格生活上に
実に適切な一語だ。
靖とは省みて良心の安らぎを覚えることで、
献はそれに基づいて自ら感激する対象に
自己を献(ささ)げることである。

真の生甲斐は、真に自己を献げるところに
発見される。
古来偉大な人、血誠の人というものは必ず
自ら靖(やす)んじたもので、
打算や理屈などの遠く及ばない境地だ。
(照心語録)

活学百言「81.二不如」

一箇の大いに元気を傷(やぶ)る進士を出だすは、一箇のよく陰徳を積む平民を出すに如かず。
一箇の万巻を読破せる邪士に交わるは、一箇の一字を識らざる端人に交わるに如かず。
(清・金蘭生『格言聯璧』)

此頃の所謂指導者や言論界を見ていると、全くこういう感じがして、黙々として働く名も無い民の方が有り難く感ずる。
日本もこういう進士邪士、即ち文武の官僚や、邪悪な然し理屈のうまい指導者なるものによって、いかに誤られ続けたか、否続けられているかということをしみじみ感じざるを得ない。

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抜粋 天保六花撰 地獄の花道 PASSAGE TO HELL 1960 CLIP ENG SUBS

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11代将軍徳川家斉治世下の江戸城西の丸に出仕した表坊主(若年寄支配下に属した同朋衆の一つ。将軍・大名などの世話、食事の用意などの城内の雑用を司る役割で僧形となる)であった。文化5年(1808年)から6年ごろ小普請入りとなり、博徒や素行の悪い御家人たちと徒党を組んで、その親分格と目されるようになったという。やがて女犯した出家僧を脅迫して金品を強請り取るようになった。文政6年(1823年)捕縛された後、程なく獄死した。巷説では水戸藩が財政難から江戸で行っていた富くじの経営に関する不正をつかみ、同藩を強請ったことが発覚し捕らえられたとされるが、詳しくは分かっていない。

宗春は取調中に牢死したため申し渡し書(判決書)が残っておらず、具体的にどのような罪状で捕らえられたのかは不明である。しかしそのことがかえって爛熟した化政文化謳歌する江戸庶民の想像をかきたて、上記の説のように、自由奔放に悪事を重ねつつも権力者には反抗し、弱きを助け強きをくじくという義賊的な側面が本人の死後に増幅していくこととなった。実録としては『河内山実伝』があり、明治初年には二代目松林伯圓が講談『天保六花撰』としてこれをまとめた。ここでは宗俊は表坊主ではなく、御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う軽輩)となっており、松江藩松平家への乗り込みと騙りが目玉になっている。さらに明治7年(1874年)には二代目河竹新七河竹黙阿弥)がこれをさらに脚色した歌舞伎の『雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)』が初演。さらに明治14年1881年)3月にはやはり黙阿弥によってこれが『天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)』に改作されて、東京新富座で初演。ここで九代目市川團十郎がつとめた型が現在に伝わっている。また、松林伯圓の講談は浪曲に影響を与え、木村重友、初代木村友衛木村若衛の木村一派のお家芸となった(現在は途絶えている)。

天保六花撰 地獄の花道』(1960年、東映
監督:マキノ雅弘、脚本:鈴木兵吾、原作:子母沢寛『すっとび駕』※1952年制作『すっとび駕』のセルフリメイク
河内山宗俊市川右太衛門

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