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『洗心洞箚記―大塩平八郎の読書ノート〈下〉』
P269

李延平先生がいっている。「書籍を読む人は、そこにのべられていることが、全部自分に関係することだということをわきまえて、自分自身のこととして追求したならば、聖人賢者が実現したことで自分がまだ実現しえていないことは、みな理解できる。もしも文字づらのみで追求して、文字づらの意味で満足して暗唱に役立てるようでは、おおかたは(主体的にとりくまずに単に)対象として吟味するだけで、(聖人になろうとする人格主義的)動機を喪失してしまう」(『朱子文集』巻九十七、延平先生李公行状)と。そもそも書籍を読んだならば、自分自身のこととしてその内容を追求する。なぜ追求するのかというと、われわれ自身が潜在的に固有している理が書籍に掲載されているからである。以上が程先生一門の読書の仕方の要諦であり、李延平先生がつねづね学ぶ者にのべていたことである。それなのに、根本義を忘れた末流の学徒は、おおかたこの点を軽視して、さまよいあるいて根本に復帰することを忘れてしまい、ひとごととして読むばかりで本来の目的を喪失してしまっている。われわれは、この李延平先生の誡しめをぜひともうけとめて、その教えを遵奉すべきである。