小松の偉いのは、家老にも就ける家柄の出身でありながら、身分の低い大久保一蔵(利通)を久光の改革チームに引き入れ、久光の嫌いな西郷吉之助(隆盛)の協力を取り付けて薩摩藩を維新実現の巨大エンジンに成長させた点にあろう。
生麦事件に際しても、小松の打った手は水際立っている。芝の藩邸や薩摩本国にすぐ使者を送りながら、行列を急がせて無用な衝突を避ける努力をする。その一方、京都にも連絡をとり、大局観に立った的確な判断を下した。
これほどの人物が歴史の暗がりに隠れがちだったのは、当人が1870(明治3)年に病死し、生前も栄爵(えいしゃく)を固辞し、功を誇らなかったからだ。
小松の業績は、現代の政治改革にも豪胆さとともに緻密(ちみつ)さが必要であり、多士済々の議論をまとめる政治家には変革への情熱を人格面でも分け隔てなく包容する大きな器が欠かせないことを教えてくれる。