https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

「政治家・官僚・ジャーナリストが囚われている“古い経済思想”とは何か」〜池尾和人・慶大教授に聞く(上)|辻広雅文 プリズム+one|ダイヤモンド・オンライン

 欧米は第二次オイルショック時にスタグフレーションに見舞われ、塗炭の苦しみを味わったからだ。オイルショックによってサプライサイド(供給側)に大問題が発生したのに、総需要喚起というケインズ政策で立ち向かい、不況を克服できないままハイパーインフレーションを引き起こしてしまったのだ。だから、ケインズ政策に対して、欧米には深い懐疑がある。

 ケインズ主義は、「自分だけよければいい」と言う発想を合理化してくれる。

 今財政支出を増やしたり、減税をすれば、裏側でコストが発生する。いずれ財源が必要になる。その財源を負担するのは将来世代だ。

世代間不平等が拡大していることは明白だ

ケインズ主義では、複眼的な思考ができないということか。


 ケインズ主義に限らず、全ての理論はそういうものだ。あらゆる事象を視野に納めようと目を見開けば、光の眩しさによって何一つ見えなくなりかねない。理論はフィルターであって、多くの事象を捨象し、見るべきものを選択してくれる。フレームで切り取る、という言い方でもいい。

 例えば米国は、前述した最悪の経済状態のなかでレーガン大統領が登場し、サプライサイドの経済政策に転換する。以来、四半世紀が経過し、経済学と経済政策は習熟度を高めた。“ニュー・ケインジアン”は、需要喚起だけでなくサプライサイドの問題に十分に注意を払っている。また、時間軸を考慮し、次世代への影響を重視した経済政策を志向する。これが世界の標準的なものの見方だ。

いくら輪転機を回しておカネを刷って配るという究極の需要喚起策をおこなっても、それだけで豊かな社会が実現できないのは自明だ

供給能力を向上させたら、さらに需給ギャップが拡大して不況が悪化する、などと言う。だが、それは今日だけを見て、明日を見ていない者の誤りだ。

 アダム・スミス以来、「分業体制を採れば生産性は上がる」というのが経済学の常識だ。だが、「分業体制」にすればただちに「生産性が上がる」というものではない。ポテンシャリテイを存分に発揮するには、分業体制を組むそれぞれが的確な役割分担をしなければならない。それぞれが的確な役割を担うためには、さまざまな社会的調整が必要になる。それを最近の経済学では、「コーディネーション(相互調整)」と呼ぶ。コーディネーションがうまくいけば経済は拡大し、失敗すれば不況になる

 悪い均衡は経済活動が縮小していても、それなりに安定している状態だから、なかなか抜け出せない。そこから脱却するには、均衡を破るショックが要る。例えば、政府が買い手として登場して、ものが売れないと思い込んでいた企業心理にショックを与え、前向きに変化させ、雇用拡大を促す。

 今や、こうした市場の機能をベースにした議論が、経済学の世界標準だ。ケインズ主義から出発した「ニュー・ケインジアン」も、古典派自由主義の流れを受け継ぐ「ニュー・ネオクラシカルシンセシス(新々古典派総合)」と呼ばれる人々も互いに歩み寄り、共通のフレームワークの中で経済政策を議論している。

いかなるコーディネーションの失敗で不況に至ったのかを正確に診断しなければ、対処方法を間違ってしまう。

 前述したように、サプライサイド、もの作り能力が維持されている場合は、ポテンシャリテイが堅持されているのだから、政府が需要喚起策を行えばよい。そうではなくて、70年代の米国のようにもの作り能力、供給能力が劣化している場合は、潜在成長率が低下しているのだから、政府が需要を喚起しても、いたずらに財政赤字が拡大するだけで何ら効果はない。どちらも不況だが、原因は違う。その正確な診断が、原始ケインジアンがはびこる日本ではできないことこそが問題だ。