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01 みなさん、「勉強」してみませんか?

 日本の進路決定を前に、問題を自分の頭で考え直してみようとするとき、私がまず直面するのは思考ツールの不足です。専門家の意見を参照して、と思っても、どこにその見識があるのか、そもそもその専門家を信じていい理由がどこにあるのか、かえって悩みは深まり、結局「なんとなく・・・」の感情論に流されてしまいそう。

何かオリジナルな「知」を生み出すというよりも、いまある「知」をさまざまに結びつけることによって、社会解釈や問題解決のための力を与えてやるという感じです。発想としては「編集」に近いかもしれません。

これだけ社会が複雑化しちゃって、これだけの数の言論があると、何をどうチョイスして、どう組み合わせるのかを考えることそのものが、研究者や専門家の共同作業によってでないとムリだと思ったのです。

その問題についての概観というか、見取り図をまず自分の中に持たないと編集どころではない

ひとつの問題を取り上げるにしても、かなりの量の文献に目を通さなくてはいけないですからね。そうした上で、それぞれの問題に適した「星座」を提示しようというのですから、それなりの体制をつくらないと困難ですよね。

問題や意見という天の星の数は増していく一方。経済、社会についての自分なりの基準になる「星座」、すなわち知をきちんと作っておかないと、その問題が理解できないし、対策も考えられない。そう思う人が増えているように思います。

そこで僕はふたつの志向が、人びとのあいだで強まっていると感じています。まずファクト、事実ベースの話を聞きたがっている。それと同時に原理を知りたがっている。

やはり社会の変動期だからでしょうね。まず社会に何が起こっているかという具体的な事実を知りたいし、同時に、なぜそのような変動が起こっているのかという原理的な理由も理解したい。いまもっとも必要とされているのは、事実を原理的に説明できる「知」だと思いますね。

私たちは、ファクトの掘り出しというのは取材である程度はできます。けれども、そのファクトを貫く原理みたいなものを見つけられるか。あるいは、誰に聞けばその原理を見抜いてくれるか、というところが非常に心許ない。

アカデミック・ジャーナリズムというか、ぼく自身、ここ数年、ジャーナリズムとアカデミックの中間あたりの文章を書こうと心がけてきました。社会的な事象を、しっかりした歴史認識や社会理論を背景に、できるだけ分かりやすく語る。だけれども、こうした言論のスタイルって、日本の論壇にはあまりないんですよね。

それも学問領域を異にする複数の専門家たちが、党派性をこえて紡ぎだしていくような言論。

こういうの、また、この引用のあとの部分に書いてあるようなことは昔はあったんですよ。
あったから戦後の発展があったのだけれども、戦後教育を受けて、マスメディアの報道を鵜呑みにしてきた人はそのことを知らないんです。