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「新しい公共」への価値転換の呼びかけ ── 理念重視の鳩山所信表明演説

 鳩山由紀夫首相の初めての所信表明演説に対する明日のマスコミの論評は、読まなくても判っていて、「抽象的なことばかりで具体性に乏しい」という基調に立って、あれが足りない、これも甘いと、ないものねだりを並べ立てるに決まっている。

鳩山は「大きな政府とか小さな政府とか申し上げるその前に、政治には弱い立場の人々、少数の人々の視点が尊重されなければならない」と言い、さらに別のところでは「国民生活の現場においては、実は政府の役割は、それほど大きくないのかもしれません。政治ができることは、市民の皆さんやNPOが活発な活動を始めたときに、それを邪魔するうような余分な規制、役所の仕事と予算を増やすためだけの規制を取り払うことだけかもしれません」とも言っている。

 そこですぐに聞こえてきそうな批評は、「大きい政府なのか小さい政府なのか、どっちなんだ」というものだが、欧州ではとっくに、そしてオバマ政権になってからの米国でもすでに、そのような「政府の介入か市場の自由か」という二者択一的な問題設定は過去のものとなっており、その両者の最適ミックスを求める"第3の道"の探究こそが政治の役割となっている。それが日本でも始まったということではないか。

 官僚主導体制とのせめぎ合いは、当面、国家戦略室を司令塔とし行政刷新会議を前線部隊として始まっていく。が、本論説や私と斎藤精一郎教授との対談で触れてきたように、それはしょせんは過去の中央集権国家の下での空中戦であり、出来ることもあれば出来ないこともある。

 今は、国会=政治家と官僚体制との空中戦的せめぎ合いとして始まった変革が、それでは完結せずに、地域主権国家への転換という形で地上戦に持ち込まれなければならず、ということはどういうことかと言えば、国民が自ら本当の意味の主権者としてこの国を治める意思を形成できるのかどうかがこの政権の消長を決めるということである。

 大変なことを鳩山は国民に求めている。「大きな政府か小さな政府か」というのは、政府はどれだけのことを国民にしてくれるのかという旧来型の発想の下での程度問題にすぎない。そうではなくて、地域住民である国民が自分の地域と国とアジアと世界をどうしたいのかがまずあって、中央と地方の政治家が出来ることはそれを政策立案や制度設計や立法技術のプロとして幇助することしか出来ませんよ、ということを言っているのである。

「私は、国、地方、そして国民が一体となり、すべての人々が互いの存在をかけがえのないものだと感じあえる日本を実現するために、また、一人ひとりが『居場所と出番』を見いだすことのできる『支え合って生きていく日本』を実現するために、その先頭に立って、全力で取り組んでまいります」