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【日本人とこころ】山本有三と勤勉(上)まっとうさと“弱さ”も描く

 ≪たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか≫

 「次野の人間的な弱さも描いたところに、有三の人間へのまなざしの深さがある。自分の経験から、きっと有三は『悪い人間』や社会の矛盾の存在をよく分かっていた。それらを認め、善悪を相対化させながら、その中でどうすればより『善い』生き方が送れるかを描いている」

「教養は、机上の勉強だけで身に付くものではない」

 「今は昔より『勉強』できる機会に恵まれている。でも、若い学生でも、何が本当の勉強か、どう生きるため何をどう学ぶのか、分からない人は少なくない。それはある意味、不幸ですよね」

【日本人とこころ】山本有三と勤勉(下)“濁流”の時代と向き合って

常用漢字の土台を作ったのは、国民作家の山本有三だった。

「戦後の国語改革については、今、『改悪』だったと批判する向きもあるでしょうね」

 劇作家として出発した有三は、小説でも「分かりやすさ」を追求した作家だった。

 「戯曲出身らしく、有三の小説には会話文が多いので、読みやすいし分かりやすい。分かりやすさには、本人も意識的だったようです」

 昭和13年、有三は単行本『戦争と二人の夫人』のあとがきで、ふりがな(ルビ)なしで読めないような漢字は使うべきでないとする「ふりがな廃止論」を展開し、議論を呼ぶ。有三以前にも、福沢諭吉らが似た主張をしていたものの、有三の戦後の活動につながる思想は、このころから確認できる。

「『米百俵』ではないですが、背景には人材育成への熱意があるでしょう。でっち奉公に出され、当時の教育の不平等を知っていた有三は、『誰にでも分かる日本語』を広めることで、不平等を是正したかったのではないでしょうか」

 戦後の21年、東京・三鷹の自宅で国語研究所を開いていた有三の元に、GHQ(連合国総司令部)の言語政策担当官が訪れたことがあった。ローマ字化を推進すべきと主張した担当官に対し、有三はこう反論したという。


 「ポツダム宣言を受諾したが、日本語の問題まで指図を受けるような約束はしていない。日本語の問題はわれわれ日本人が解決するから、口出しはしないで下さい」(長女の永野朋子著『いいものを少し』)

 「濁流」は、一高時代の同級生で、戦前に宰相となった近衛文麿を「雑談」として描いたものだった。


 「有三は19年、東条英機の暗殺計画の決起文を書くよう近衛から依頼されたり、戦後近衛が自殺する前夜、本人に会うなど相当近い関係にあった。有三は戦争を回避できなかった近衛を合わせ鏡に、『濁流の時代』と自分の総決算をしようとした」

 「最期まで、教養を社会でどう生かすか、ひたすらに生を見つめ続けた作家だった」