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わかりやすい国会の話[第6話] 日本で国会がつくられるまで(6)

 明治15年3月、伊藤博文らは「憲法取り調べの勅語」を賜り、欧州に憲法の調査に派遣される。明治維新後、伊藤が天皇の命令で憲法制度調査のため訪欧するまでの15年間に、我が国では数多くの憲法構想・私案が発表されている。判明しているだけで39件ある。また、その間、『学問のすゝめ』(福沢諭吉)、ミルの「自由論」などが訳本として刊行され、国民の啓蒙に役立っている。


 訪欧した伊藤は、ドイツ(当時のプロシア)を中心に調査を行った。学んだといった方が正解であろう。ドイツ流の憲法の導入と天皇制の強化にアドバイスを受け、明治16年8月調査を終えて帰国する。

 政府は明治21年4月枢密院を設置し、憲法で関連法令を審議確定していく。その順序は(1)皇室典範(2)憲法(3)議院法(4)衆議院議員選挙法(5)貴族院令ということであった。トップに「皇室典範」を審議したことに、明治国家の特徴がある。また、議院法と衆議院議員法が勅令で予め決定されていたことに、明治憲法下の「帝国議会」の特徴と限界があった。

 確定した「大日本帝国憲法」の特色は、


第1、天皇は独立命令権を有し、憲法改正発議権も勅令で、立法権も議会の協賛で行われた。行政権は国務大臣の輔弼(ほひつ)により天皇が総覧し、司法権天皇の名で裁判所が行う。


第2、皇室に関する事項を憲法外に置いた。


第3、大権内閣制を採用し、政党内閣を前提としなかった。大臣連帯責任制も認めず、国務大臣は各々その職務に関して個別に天皇に対して責任を負担することであり、議会に対して大臣は責任を持たないものとした。


第4、枢密院が天皇の最高顧問府として議会の外に存在することとした。


第5、議会は貴族院衆議院二院制であったが、権限は大臣弾劾権も憲法改正発議権もなかった。


第6、この他に天皇の大権として、「陸海軍の統帥」「陸海軍の編成および常備兵額の決定」をはじめとして、宣戦講和および条約の締結など。


 というものであった。