「頭が良い」の定義は変わる。 ロジカルシンキングより“メタ思考”|混迷日本で幸せになるための“21世紀型”リテラシー|ダイヤモンド・オンライン
ビジネスパーソンなら、誰しも頭が良くなりたい、と思っている。しかし今日の「頭が良い」とは、一体、何のことだろう? 僕は「メタに考える力」だと思う。それは、「物事を一歩上の次元から見ること」であり、「本質に迫る」ことだ。このメタ思考とは何か?、そのために心がけるべき事は何か?を整理してみた。
ビジネスパーソンなら、誰しも頭が良くなりたい、と思っている。
しかし今日の「頭が良い」とは、一体、何のことだろう?
知識があること?
いや、Wikipediaやgoogle先生に聞けば、大抵のことがわかる今、昔のように「ウルトラクイズ」は流行らない。ハードディスクは外部化され、知識や情報は“つまみぐい”すればいい。
記憶力(メモリー)が頭の良さか?
これも違う。仕事に短期記憶(メモリー)は求められるが、情報の新陳代謝が激しい時代にそれは付加価値にはならない。
では頭の良さとは何か?
僕は、今日の頭の良さとは、「メタに考える力」だと思う。メタ(抽象的)に考えるとは、物事を一歩上の次元から見ることである。
例えば、問題を与えられたら、いきなり解決策を考えるのでなく、まずはその一歩上の問題自体について考えることを、考えはじめることである。
あるいは、勉強を始める前に、科目の中身でなく、一歩上の次元である勉強の仕方について勉強することである。
物事それ自体を見るまえに、その物事の上位概念を見つめることで、物事の姿・意味合いをくっきりと浮かびあがらせることができる。その結果、新しい選択肢が見えたり、その物事自体が実はどうでもよいものであることが明らかになる。
今日、僕たちが抱える問題は、この李鴻章の問題と似ている。つまり、今日の問題の多くが「対立」をはらんでいる、ということだ。
対立とは人が矛盾を望んでいる状態であり、矛盾とは、人がAとBの両者を成り立たせようとして「もがいている」状態である。だから問題解決とは、AとBを両者とも成り立たせるCの発見でなければならない。
経営者の葛藤もいつもこの矛盾にある。
守るべきは「人」か「利益」か、と言うときに、人を切って利益を出すのはある意味簡単だが、両者を同時に満たそうとするから経営者は悩むのである。経営とは要するに「矛盾を統合」する作業である。
そんな矛盾の統合に、このメタ思考が役に立つ。メタ思考によってより上位から見つめた時に、隠れていた本質的な矛盾を初めて見抜き、その問題が発生している一次元上での“調和”を達成することができるのだ。
メタ思考によって、上位概念を考えるとは、もっと言えば、物事の“本質”に迫ることを意味する。
本質には、「普遍性(応用がきくこと)」「不変性(時がたっても変わらないこと)」「単純性(シンプルであること)」という要素があるものだ。
こういった本質を押さえると応用可能性が高くなる。
たとえば、単語の覚え方に「語源」から覚える方法がある。
多くの単語をひとつひとつ覚えずとも、単語の一部分の根源的意味を知っていれば、知らない単語の意味を推察できてしまうという方法である。
しかし、さらに“本質”を考える人は、実はアルファベット1文字ずつの意味を知っている。
抽象性は高いが、本質的であるからこそ応用が利くのである。
頭の良い人は、極めてメタ(抽象的)な本質をいくつか押さえており、そこから枝葉末節の問題を難なく解決してしまうものである。
しかし、本質に迫るという作業はたやすいことではない。
常に考え続けなければならないからだ。
情報量が増えれば増えるほど、人は思考しなくなる。これを「情報と思考のパラドックス」という。今の情報過多の時代は、考えるには不利な状況にある。
だから僕たちは意識的に情報流入を制限し、常に「思考量>情報量」を意識しなければならない。
ときには新聞を閉じ、テレビを消し、意識的に情報を遮断する時間が必要だ。
思考のコツを三つほど紹介しよう。
一つ目は、「すべてのものは有機的なつながりを持っている」という前提に立つことである。
「世界は、ひとつである、違うように見えてすべては共通する」という前提にたって考えれば、自然に物事と物事の間の関係が見えてくる。すると物事の上位概念や下位概念、因果関係といったものが明らかになってくるのである。
二つ目は、「すべては、らせん的に生成・発展している」と考えることである。
らせん的に世の中が発展しているという考えは、弁証法の基礎である。すべてがらせん的に発展するという前提に立てば、過去の事象・現在の状態から、次にどの方向に行くか、どういうレベルで上昇・進化するのかを洞察できる。これは未来を推察するための大きな手がかりになる。
三つ目は、ひたすら考えた後は、「考えるのを止める」ということである。
自分自身の経験から究極的に「思考を完全に止めた後に、解が浮かび上がってくる」という状況があった。
考えに考え、最後に思考を止めたときに、「答えが、自ずから浮かびあがってくる」のだ。それを考えると、本質解は、実は最初から「在る」のではないか、そしてそれに対する「気づき」を得ることの方が重要なのではないか、と思うようになった。
そして、「anan」のセックス特集を手にとって颯爽とレジへと向かった。僕にはこっちの方が必要だ。