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高橋是清のインフレ政策で昭和恐慌から脱出(1931−32年)|週刊ダイヤモンドで読む 逆引き日本経済史|ダイヤモンド・オンライン

 金本位制は第1次大戦(1914−18)で崩壊し、1920年代に入ると各国は順次復帰していった。イギリスは1925年4月、離脱以前の旧平価(ポンド高)で金解禁(金本位制復帰)すると発表した。英国議会の予算演説で発表したのは当時の大蔵大臣、ウィンストン・チャーチル(のちの首相、1874−1965)である。


 これに対し、1919年に大蔵省を辞めてケンブリッジ大学にもどり、パンフレットや論文を書いていた経済学者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883−1946)が批判した。


「ポンドの外国為替価値を、それが戦前の金換算価値を10パーセント下回っている点から戦前水準まで引き上げるという政策は、」「晩かれ早かれ、各人の賃金を1ポンドについて2シリングずつ切り下げる政策」である。「デフレーションは一度少しでも動き出せば、その進展が加速度的となる。もし実業界全般に悲観論が広まるならば、その結果、貨幣流通の速度が鈍らされ、別にイングランド銀行公定歩合の引上げまたは預金減少の手を打たずとも、デフレーションを長びかせることができる。」(ケインズチャーチル氏の経済的帰結」1925★注?)

この5年後、井上蔵相チャーチル蔵相と同様に旧平価解禁を実行し、デフレに見舞われることになる。

 1929年10月のウォール街暴落以降、資産価格は下落を続け、ヨーロッパにも大きく波及し、とく第1次大戦の敗戦で巨額の賠償金を課せられていたドイツの打撃は大きかった。


 第一次大戦後、復興途上の敗戦国ドイツへイギリスからの投資が進んでいたが、1930年恐慌でイギリスの金流出が激化した。9月には危機的な流出額となった。1日1000万ポンドを超えたのである。イギリスはついに1930年9月20日金本位制からの再離脱を発表した。

1931年はマイナス成長となり、野党政友会の攻撃も激しく、閣内不一致によって総辞職したのが年末の12月13日だったというわけだ。


 じつは、民政党内閣総辞職、そして井上蔵相辞任のニュースが伝わり、高橋是清が後任に就任するといわれた12月12日、株式市場も商品市場も暴騰している。


 高橋新蔵相が一転して財政緊縮から支出増、金融緩和へ舵を切ることは誰の目にも明らかであり、マネーが市中にあふれることを市場が予測し、相場は急騰したのである。買いが殺到して収拾がつかなかったため、3日間、市場取引が停止された。


 12月13日、組閣の日に高橋蔵相は金本位制からの再離脱を発表し、金との交換も停止した。そして公共事業支出(軍需産業向け)を増額する財政拡張政策をとって昭和恐慌を収束させた。市中の消化状況を見ながら公債を日本銀行に引き受けさせる量的緩和、すなわちインフレ政策も導入した。


 高橋財政はケインズ以前のケインズ政策だといえよう、これを後世の研究者は大いに評価している。

 一方、井上準之助の緊縮財政、高金利、産業リストラ政策は恐慌を激化させる結果となったが、これはケインズ政策に対する新古典派IMF政策のようなものだ。


 当時の「ダイヤモンド」は誌面で旗幟鮮明にせず、比較的客観報道に徹していたように思えるが、前回紹介したように井上準之助の主張を2号にわたって掲載していたように、やや井上寄りだったかもしれない。


 というのは、1923年に「ダイヤモンド」編集局へ入社し、のちに主筆をつとめていた安田輿四郎が自著で大要、次のようなことを書いているからだ。


「新平価(円安)でインフレを起こしてから恐慌を起こさせるのがいいか、旧平価(円高)解禁のままデフレを進行させ、経済を縮小して恐慌にいたるのがいいか、いまや二つに一つしかない。私は後者を選ぶ。旧平価を切り下げてもあまり意味はない。それほどの差ではないからだ。金本位制に復帰すれば同じことだ。」(筆者による要約・安田輿四郎『金解禁前後の財界』ダイヤモンド社、1929)

 井上準之助が大リストラを行ない、財政を緊縮してスリムにしたからこそ、高橋是清のインフレ政策の効果もまた大きくなった、という見方もできる。井上財政はIMF処方箋の考え方に近い。1997年のアジア通貨危機で、IMF政策を受け入れた韓国、タイなどは、翌年には急回復している。

 井上もそれは承知していた節はある。「財界大整理」をねらってデフレ政策を導入したのだ。要するに、傷んだ会社、金融機関は整理して新しい成長を図るという考え方で、日本経済全体のリストラを目標にしたわけだ。まったく現在のIMFそのものである。

ケインズのライバル(面識はなかったが同年齢)、ボン大学教授ヨゼフ・シュンペーターがちょうど1931年初頭に来日し、昭和恐慌のまっただなか、各地で講演していたのである。

第一次大戦前の平価(旧平価)による金本位制の再建という貨幣改革は、ビジネス界の苦境をさらに悪化させる。(★筆者:ケインズと同じ意見。)

・急進的な財政緊縮策(累進度の高い課税制度などを含む)は、貯蓄と準備金を切り詰めさせることになり、金融メカニズムが正常な機能を果たせなくなる。好況は遠のく。

・結論……完全な回復には時間がかかるものの、1931年にはかなりの回復が見られると予想する。

 シュンペーターの予想は、日本に関しては1年遅れたがほぼ当たった。

 井上準之助が大リストラを行ない、その帰結として大不況となった。絞りに絞ったところへ高橋是清が財政拡張政策と金融の量的緩和を行ない、一気に回復したことになる。

 では、どうして日本は、井上準之助が大リストラを図らなければならない事態に陥っていたのか、次回は高橋是清が日本の危機を救った1度目、昭和2(1927)年の金融恐慌へ逆引きする。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110723#1311419637