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『松原泰道全集1 般若心経のこころ』
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日本でこの般若心経を最も多く読んだのは、何といっても塙保己一(一七四六〜一八二一)でしょう。彼は今の埼玉県本庄市付近で生まれた江戸中期の有名な国学者です。不幸にも、五歳(七歳とも)で盲目となり、十二歳で母と死別した悲劇の人です。
 彼は生活のために琴と鍼を習いましたが、ものにならず、後に賀茂真淵らについて国文学を学んだところ、抜群の努力と異常な記憶力で国学だけでなく、中国文学にも通じました。もちろん、盲目で字は見えないから、人に読んでもらって聞くのですが、二十五、六歳のころには古今の有名な本の大部分を人に読み終えてもらい、それをことごとく暗記しました。
 二十七歳のとき、江戸亀戸の天満宮に参詣して、向こう一万日に、毎日般若心経を百巻ずつ、つまり「百万読誦」を誓います。それは、かつて鍼の先生であった雨富検校からの「世に名を残すほどの事業をするには、神仏のご加護がなくては不可能だ」との注意に従ったのです。
 保己一は「百万巻心経読誦」の誓いとともに、その半分の五十万巻に達するまでに、書物千冊を読んでもらおう、心経百万巻を読み終わるまでに、それまで暗記した書物を全部出版しよう――との大願をおこしました。彼は、心経を十巻読んでは用意の紙のこよりを小箱の中に一本ずつ入れ、彼の妻がそれを数えて手帳に記入します。誓願「万日」はおろか、保己一が七十六歳で没するまでの四十三年間、一日も怠りませんでした。
 彼のこの看経(お経を読むこと)の記録は現存する『般若心経御巻数帳』に残されています。一日百巻ずつで一ヵ月三千巻、一ヵ年三万六千巻、四十三年間に百五十四万八千巻ということになるのですが、『巻数帳』は「二百一万八千六百九十巻」――四十七万六百九十巻の“増”を記録しているので、ときには日に二百巻も心経を読んだと思われます。
 そして、彼は発願の『群書類従』という叢書を完成します。この叢書はわが国の古文書や昔の書物を集めて校訂(定本と他の伝本と比較訂正すること)を加え、正編五百三十巻、続編一千巻を超える膨大なもので、日本の国学研究に大きな貢献をしました。
 塙保己一は、盲目であるから、心経をはじめ、古い書物も人に読んでもらって耳で聴き、暗記するとともにこころで深く思索したのです。ゆえに私は「保己一は耳で読んだ」と申したいのです。普通、本を読み終わるのを「読破」といいますが、彼の場合は「聞き破」ったというべきでしょう。このように、口でなく耳で読み、こころで深く思考する看経(かんきん)により、彼は澄みきった『こころの眼』を開くことができたのです。
 ある雪の日、彼は平河天満宮へ参詣に出かけました。折り悪しく、高下駄の鼻緒が切れたので、境内の『前川』という版木屋(出版業者)の店の者に、ヒモでもいただきたいと頼みました。店の者は無言でヒモを彼の前にほうり出しました。盲目の彼が、ようやく手さぐりで探しあて、鼻緒をたてるそのしぐさがおもしろいと、店の者たちが手をたたいて笑うので、彼はいたたまれず、顔を赤らめてすごすごとはだしで帰りました。
 やがて、苦心の『群書類従』が完成して出版するにあたり、彼は幕府にこの『前川』を「版元」に推薦したのです。何も知らぬ主人が、保己一に推挙の礼をいうと、保己一は、「私の今日あるのは、あのとき受けた軽蔑に発奮したのが動機であるから、私のほうがお礼を申しのべたい」と、見えぬ目に深いよろこびを浮かべて語ったということです。
 怨みに報いるに怨みをもってしたら、永久に怨みはなくなりません。その相手を救おうと努力するところに、怨みはおのずから消えるのです。それが怨みを忘れずして、しかも怨みを空ずることになります。「心経」の知恵が、ここに躍動しています。災難を逃れるのもありがたいことですが、人生の逆境に立たされたとき、聖らかに、楽しく生きてゆける動力を、自分の中に開発できるのがお経の最上の功徳でありましょう。
 なぜならば、お経は、釈尊がさとったこころの内容を語るものですが、ほとけのこころそのものは、言葉で言い表わすことはできません。私たちはお経を読み、その導きによって、人生の深い真実なものをうなずきとった釈尊のこころに直結できたとき、ほんとうに「字で書かれたお経」が読めたといえるでしょう。

塙保己一 - Wikipedia

なお、ヘレン・ケラーは幼少時より「塙保己一を手本にしろ」と両親より教育されていて、1937年に来日した際、記念館を訪れている。

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