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『松原泰道全集4 仏教のこころ』
P386

 禅は、宇宙と人間とをつらぬく絶対の真理を体験するのが目的です。この目的を実際に体験するためには、どうしても私たちの心に浸み通っている相対的な考え方を超えなければなりません。
 現代人である私たちは、合理主義の祖とされるデカルト(フランスの哲学者。一六五〇年没)のいう”われ思う、ゆえに我あり”の考え方にもとづく合理的発想法に慣らされています。しかし、もし私たちが新しい思索の世界に入ろうとするなら、デカルトの到達した”我あり”の我とは何であるか、をみつめなければならないでしょう。
 たとえば、いま私は原稿を書いていますが、ペンを持って執筆している自分とは何であるか――と、自分を客観的に正しく知りたいのなら、自我に執着していてはだめです。自我を離れなければならないでしょう。自我を超えるための命題・テーマが公案です。
 したがって、公案の内容は合理的ではありません。もしも公案が合理的であったら、合理性対合理性の考え方では、果てしがなくて解決にはならないからです。そこで、公案は当然、非合理性の内容を持ちます。といっても公案は、不合理なテーマではありません。
「不合理」と「非合理」とは別次元のものです。「不合理」は、論理的に筋が通らないことで、“私の父は、私より齢が下です”というようなものです。
「非合理」は哲学用語で、合理的な知識では理解できない、つまり論理を超えた認識のことです。たとえば、芭蕉は「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」と吟じますが、蝉の声が岩にしみ入るわけではありません、不合理です。しかし、合理によって事実を学ぶだけではなく、合理的な知識だけでは知ることのできない自然や人生のいわゆる非合理の真実を体験してはじめて、このすばらしい名句が生まれるのです。豊かな人生を築くこともできるのです。
 禅の公案は、合理的な三段論法では知ることのできない、宇宙と人生とをつらぬく真理をストレートに体得させる手引きとして与えられた課題です。よって公案を論理的に合理的に解釈しようとするのは、まず方法論的にスタートを誤っていることを知るべきです。

「合理的発想法」=「合理的な三段論法」=分別知
分別知を破ることを見性(けんしょう)するという。
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法的三段論法

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