https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

『新編 漢詩読本』
P43

作品としての詩の第一の要件は、
  いかに統一生動しているか
という点にある。言い換えれば、能く内面的造化的であって、くだくだしい事件的外面的でないことである。
 広瀬淡窓詩話に、父は生前俳句が好きであったが、こんな話を聞かされたことがある。ある門人が海鼠の句を作って師に見せた。
  板の間に 下女とり落す 海鼠かな
師は一見して直に道具建てが多いと却下した。そこで弟子は沈吟して、これを、
  板の間に とり落したる なまこかな
とした。師は、うん大分好くなった。しかしもう一息だとまた返した。苦吟の果てに、弟子が持って来たものは、
  とり落し とり落したる なまこかな
となっていた。善哉、初めて師はこれを許したと。「板の間に下女とり落す海鼠かな」はなるほどよく分る。が、分り過ぎて本当の処何を詠んだのか分らない。海鼠を詠んだにしては海鼠の海鼠たる所以がちっとも躍動しておらない。板の間に娘の落すでも、板の間に童でもまた好い。かなの二字で海鼠が主になっていることは分明だが、どうしても、板の間や下女に気が散る。その板の間を去り、下女を除くに随って、海鼠がはっきり出て来る。摑みどころのないぬらりくらりとした、なまこらしいところがよく出て来る。ここだ。大切な詩の魅力といわれる“kinetic and potential speech”の好い例である。(一)
 (一)アーサー・ランサム(Arthur Ransome)の詩論に、詩というものは動的な言葉が潜勢的な言葉に結びついて出来る。そのどちらかを失ってしまうと、もはや詩ではない(Poetry is made by a combination of kinetic with potential speech. Eliminate either, and the result is no longer poetry.)といっている(野口米次郎『詩論』所引)。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071206#1196937102