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藤圭子さん飛び降り自殺 数年前「話す人いなくて寂しい」 ― スポニチ Sponichi Annex 芸能

 一体、藤さんに何があったのか。親しかったスポニチ本紙記者に「どうしても会いたい。相談したいことがある」と数年前、電話を入れていた。会ったのは亡くなった場所と同じ西新宿。「久しぶりに日本に帰ってきたけど、話す人がいない。寂しい。昔の知り合いに連絡を取ってみたいけど、電話番号もどこにいるのかも分からない」と、孤独感に襲われていることを吐露。手塩にかけてきた宇多田についても「このままではダメ」と厳しく言った上で「彼女は天才。私よりずっとずっと凄いんです。私がいたらもっとあの子のいいところを引き出せるのに」とアイデアを次々と語っていた。ただ、照實氏と宇多田とは10年近く疎遠になっていて、「もうずっと会っていない」と明かしていた。


 家族との愛憎は現役時代からで、金銭トラブルで母親とは絶縁。音楽界の生みの親で、3月に亡くなったプロデューサーの石坂まさをさんのことも憎んでいた。


 かつて藤さんは本紙記者に「感情を抑えることができない。パニック障害と診断された」と明かしていた。あまりにも研ぎ澄まされた感性が周囲とのあつれきを生み、孤独になっていった。時代の徒花(あだばな)とも言われた天才歌手ゆえの悲劇かもしれない。

朝日新聞デジタル:「藤圭子の衝撃、まちがいなく怨歌」五木寛之さん

「浅川マキ、藤圭子。時代のうつり変わりを思わずにはいられない。1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。ブルースも、ファドも『怨歌』である。当時の人びとの心に宿ったルサンチマン(負の心情)から発した歌だ。このような歌をうたう人は、金子みすゞと同じように、生きづらいのではないか。時代の流れは残酷だとしみじみ思う。日本の歌謡史に流星のように光って消えた歌い手だった。その記憶は長く残るだろう」

藤圭子さん死去:高度経済成長の影の部分を体現 毎日jp(毎日新聞)

 藤さんは、そのイメージから逃れられなかった。反畑さんは「本当はネアカな一面もあったが、最近はどこか孤独を感じさせた。こんな時代だからこそ、昭和を感じさせる数々の曲を歌い続けてほしかった」と無念さをにじませる。

藤圭子さん自殺:宇多田ヒカル“夢”果たせないまま 毎日jp(毎日新聞)

 藤圭子さんの急死に、誰よりもショックを受けているのが長女の宇多田ヒカルだ。藤さんのことを尊敬し、3年前に音楽活動を休止した時も、行方知れずの母親を捜す目的もあったとみられていた。やっと伝えられた消息は、母の姿を追い続けた彼女にはあまりにつらい悲報だった。


 本当はロックなどの洋楽が好きだった藤さんは、その夢を娘に託した。80年代、家族3人で「世界を目指そう」とニューヨークで生活を始め、資金が底をつくと帰国し、一時引退していた歌手業の地方回りで稼いだ。


 苦しかったその頃、ニューヨークの時計店で買った“宝物”の高級時計を質店に入れて食いつないだ時もあった。日本中が衝撃を受けた宇多田のデビュー曲「Automatic」には「time will tell」というカップリング曲が収録されている。実はこのタイトルはその時の時計店の名前。藤さんは記者に「私はこの子に自分の人生のすべてをかけている。その象徴の一つ」と、そこに込めた思いを明かしていた。


 幼少期から勉強好きで成績優秀だった藤さん。しかし、浪曲師の旅芸人だった両親との生活は貧しく、高校進学を断念せざるを得なかった。00年に宇多田が米国の名門コロンビア大学に合格したのも、学業を犠牲に歌手の道へ進んだ母の思いを知っていたからこそで、母娘執念の“倍返し”だった。


 02年に宇多田の全米デビューが決まった時は、まさに母の夢を娘がかなえた時だった。しかし、米レコード会社と専属契約を結んだ時に撮影した親子仲良しのスリーショットをその後、見ることはなかった。


 藤さんは生前、家族3人で乗っていた愛車「ミニ」の話をよく記者にしていた。娘を養うために地方を巡った7年間、この車で全国を回った。照實氏が運転し、藤が助手席。狭い後部席が幼い宇多田の指定席で「前に座りたい」とねだると「私より大きくなったらね」と約束したという。


 しかし、日本音楽史上空前の大ヒットを記録した時、照實氏はベンツに乗り、宇多田は仕事でワゴン車を使うようになった。いつしか「ミニ」はホコリまみれで忘れ去られ、藤さんは「またあの時のように3人寄り添うように乗りたい」と話していた。

 ≪銀行も信用せず≫藤さんと会うたびに驚かされたのは、いくら入っているのか分からないほどの現金をキティちゃんのバッグなどに入れて持ち歩いていたことだ。一緒にマクドナルドに入店した時も、カバンに手を突っ込んで「私、払おうか」と言うから、そのたびに止めた。極度の不安症のためか人を信じず、銀行も信用していなかったためだ。決してやましい金を持ち歩いていたわけではなかった。

飛び降り自殺…藤圭子を追い詰めた宇多田ヒカルの成功 ゲンダイネット

 再び脚光を浴びたのが98年だった。娘の宇多田ヒカルがデビューしたのだ。藤は再婚相手の宇多田照實氏とともに娘の売り出しに奔走。ヒカルはミリオンヒットを連発してスーパースターに躍り出た。


 だが娘の成功は藤を“無軌道な母親”に変えた。06年、ニューヨークのJFK空港で現金約42万ドル(当時のレートで約5000万円)を没収され、藤がラスベガスやモナコなどのカジノ通いにのめりこんでいることが発覚。藤は「5年間で5億円は使った」と語ったものだ。


「因縁めいたものを感じます」と言うのは芸能リポーター石川敏男氏。


「藤の母は夫が娘を食い物にしていると感じ、愛想を尽かして離婚しました。藤と似ています。ヒカルのカネでギャンブルに明け暮れているようなものなのに、彼女を叱れるのは宇多田氏しかいなかった。2人が相互依存カップルのように6度の再婚と離婚を繰り返した理由のひとつは、藤のギャンブル癖と考えていいでしょう」


 藤はヒカルのマネジメント会社の役員として1億円以上の年収を得ていた。もしヒカルがスターにならなければ、ギャンブルにのめりこむこともなく、自殺に追い込まれなかったかもしれない。


「彼女には若いころ映画のロケで先輩女優にジャムパンをもらい、“子供のころ食べたかったけど貧しくて食べられなかった”と涙を流したエピソードがあります。貧乏生活から抜け出し大金を手にしたため、その反動で浪費家になったのかもしれません。しかも最近はアルコール依存症に近く、精神的に不安定だった。」(石川敏男氏)


 藤は「私の人生暗かった」と歌い、薄幸の女のイメージでスターになった。大金はつかんだが、幸せにはなれなかったようだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130821#1377082129(僕の答えは明快。淋しくありません。/ そうして自分を律していると、世界は開けてくるんです。)