https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

『武士道』

勇気の私生児

匹夫の勇

第四章 勇気、その勇猛さと忍耐の精神(COURAGE, THE SPIRIT OF DARING AND BEARING): れんだいこのブログ

我々が踏み行うべきにして戻るべき「勇気、その勇猛さと忍耐の精神」を検討してみよう。勇気は、義の為に行われるのでなければ徳の中に数えられるに殆ど値しない。孔子は、論語に於いて「義を見て為さざるは勇なきなり」と説いた。その常用の論法に従い消極的に勇の定義を下している。曰く「義(ただ)しきことは行われるべし」。且つ「勇の欠如の議論に耽ることをせざる勿れ」としている。この格言を積極的に云い直せば、「勇とは義(ただ)しきことを為すことなり」と云うことになる。

勇気が人の魂に宿れる姿は平静即ち心の落着きとして現われる。泰然自若は平静状態に於ける勇気である。泰然自若は、敢斗が勇気の動態的なものであるとすれば、その静態的表現である。真に勇敢なる人は常に沈着である。

信ずべき史実として伝えらるるところによれば、江戸城の創建者たる大田道灌が槍にて刺された時、彼が歌を好むを知れる刺客は、刺しながら次の如く上の句を詠んだ。「かかる時さこそ生命の惜しからめ」。これを聞いて、まさに息絶えんとする英雄は、脇に受けたる致命傷にも少しもひるまず、下の句を続けた。「かねてなき身と思ひ知らずば」。

義家は、引き絞りたる弓を俄かに弛(ゆる)めて立ち去り、掌中の敵の逃げるに任せた。人怪しみてその故を問いたれば、敵に激しく追われながら心の平静を失わざる剛の者を辱(はずかし)めるに忍びず、と答えたと云う。

上杉謙信は、14年間に亘って武田信玄と闘ったが、信玄の死を聞くや、「最高の好敵手」の失せしことを慟哭(どうこく)した。

 二―チェが、「汝の敵を誇りとすべし。しからば敵の成功はまた汝の成功なり」と云えるは、サムライの心情を語れるものである。実に、勇と名誉とは等しく、平時に於いては友たるに値する者のみを、戦時に於ける敵として持つべきことを要求する。勇がこの高みに達した時、それは仁に近づく。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131208#1386499144