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【適菜収の賢者に学ぶ】本はたくさん読むな - MSN産経ニュース

 読書論は数多いが、すでに新渡戸稲造(1862〜1933年)が言い尽くしている感がある。すなわちそれは「本はたくさん読むな」ということだ。多読であることを誇る人がいるが、真の知とは情報の集積ではなく考えるプロセスにある。


 情報化社会の進展により、あらゆる情報が容易に手に入るようになった。自分の意見、世界観を補完してくれる情報は、ネットを使えばすぐに集めることができる。こうして彼らは、首尾一貫した《世界》を手に入れた。


 そこでは万能感、自己肯定感が高まり、自分の正義しか信じられなくなる。過剰な情報により、世界はますます狭くなり、必要な情報から遮断されていく。つまり、情報化社会が情報弱者を生み出しているのだ。


 彼らは簡単に理解できる本、自分の世界をあたたかく包んでくれる本しか受け付けない。都合の悪い情報を避けるための言い訳はすでにどこかで手に入れている。


 新渡戸はこうした姿勢を批判した。


 「黒いインキで書いてあるものを読むだけならば誰でもできる芸当である。スタディということになるといろいろ批判を下さなければならない。これがよい、これが悪いと判断しなければならない。悪い癖がつくと、これがなかなかやれない。ただ書いたものを丸呑みに、消化せずに、金魚がエサを食うようにばくばくやってしまう。だから、諸君が読書するには遅くてもいいから、一日に何ページでもいいから、『この本にはこうあるけれども、どうか』というようにじっと考えてもらいたい」(「読書と人生」)


 大切なことは最先端の情報を追うことではなく、情報の価値を見抜く眼力を養うことだ。


 「多読病にかかった奴は、話をしても脱線脱線で元に帰って来ない。何を話しているのかわけがわからなくなってくる。そうなると話ばかりでなく、人間そのものまで無頼漢になってしまう。何をしても特徴がなくなる。何をやっても駄目になる」(同前)


 それを防ぐためには「考え方の芯」をつくらなければならない。そしてその唯一の方法は、古典に向き合うことだ。


 新渡戸は、古典を一つだけ熟読することを薦めている。彼はゲーテの『ヴィルヘルム・マイスター』と『ファウスト』を20回繰り返し読み、英訳も20ほど集めて比較した。「腹の底」に入ってはじめて「考え方の芯」になる。


 「そんなものは他人の受け売りではないか」「古典はあくまで参考として使えばいい」……。こうした考え方は現代人特有の倒錯だ。自分の側に古典をひきつけるのではなく、人類の知の伝統に自分の「考え方の芯」を揃(そろ)えようとするのが真っ当な人間であり、そうでなければ文化も常識も成り立たない。


 「こうした心棒が動かない以上は、皆、元に帰ってくる。こういうときになって、初めて読書が人間をこしらえることになる。読書にして人間をこしらえることに貢献しないならば、これはただ漫談家を作るにすぎまい」(同前)


 厖大(ぼうだい)な知識を持ちながら、まともな価値判断ができない人がいる。最先端の情報を駆使しながら、目の前の現実が見えない人がいる。彼ら「漫談家」が世の中を悪くするのだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131205#1386240307


http://d.hatena.ne.jp/d1021/20131116#1384599061