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私たち日本人は何を失って来たのか?何を取り戻すべきなのか?? (連載「パックス・ジャポニカへの道」) - 原田武夫国際戦略情報研究所公式ブログ

「一度発した言葉は世界のどこにいようとも必要な人に、必要なタイミングで必ず伝わっていく。」

「日本には地球人類を精神的に指導する使命があります。現今の地球に蔓延する『力(軍事力と経済力)の強いものが勝ち』という、野蛮な風潮が、地球に平和をもたらすはずがないことは、だれの目にも明らかです。しかし残念なことに、それに代わるものがどこにもありません。まだ時ならず、どこかにひそんで、じっと出番を待っているのです」


「まだ時ならず」―――私も正にそう感じている。「地球人類を精神的に指導する」のであれば、すぐさまその役割を果たせば良いように思えなくもない。だが、これから我が国が行うことは小手先のことではないのである。長年にわたって米欧の統治エリートたちが国際社会全体に刷り込んで来た「枠組み」そのものを入れ替える、大仕事であり、大洗濯をするのである。一撃必打でなければ死人が出、返り血を浴びてしまう。そうではなくて人々が無意識に「それしかない」と思った瞬間に全てを入れ替えるのである。しかも米欧の統治エリートたちのやり方とは全く正反対のやり方で、だ。

「それは、日本の江戸時代の庶民の精神性に一端をかいま見せています。明治政府によって、一旦は抹殺されたかのようでしたが、日本の深い精神風土は、そんなことで消え去るものではありません。・・・(中略)・・・その江戸文化は、ペルー(註:ママ)の来航以降、ひっくり返されてしまいました。西欧人の強大な腕力(兵器、産業)の前に、豊かな精神文化は邪魔者扱いでした。そのまま明治維新から大戦を経て、未だにその価値観が続いています。世情は封建政治を打破した長所に目を奪われて、この大きな欠点に気付いていません。


 島国根性とか、辺境人論とか、自虐的、卑屈な日本人観が多々見られますが、それらは、かつての豊かで高貴な日本の霊性を、亡失した故の発想です。西欧的、打算的視点からは、うかがい知ることができないところに、日本の霊性はあります。


 一見、消極的であったり、遠慮がちに見えたりしますが、その裏には、深い精神性と、強い粘り腰が潜んでいます。不退転の永続性を秘めています。それも明確にし、再評価し、今後の指針としたい」

かつて私は独キール世界経済研究所が主催していたグローバル・エコノミック・シンポジウム(Global Economic Symposium)に参加していたことがあった。一時はかなり熱心に参画していたが、ある瞬間から一気に冷めてしまった。なぜならばこんなことがあったからだ。


あるタイミングからフランス人の「チベット僧」なる人物が主要メンバーとして招かれるようになった。その筋では高名な人物であるそうだが、その説く内容が余りにも稚拙で茫然としてしまったのである。曰く、「これからの世界で必要なのはcompassionである」と。主催者や並み居る米欧からの列席者たちは真剣な眼差しでこのcompassion論を聴き、「瞑想しましょう」という言葉にしばし目をつぶり、黙していた。


私にとってそれは正直、茶番でしかなかった。そして同時に、隣に座る米欧からの出席者たちに対してある種の憐れみを感じざるを得なかったことも吐露しておきたい。なぜならば彼・彼女らは「そうすること」によってだけ、ほんの少しだけ「在るべき姿」「ヒト」に戻ることが出来るからである。だが私たち日本人は違う。何も「compassion」などという単語を取り出さなくとも、他者を慈しむことをベースに生を営むことを生れ出た瞬間からこの国にある精神的風土の中で元来学んできているのだ。そこが・・・彼岸と決定的に違うところなのだ。

「2000年頃、藤原正彦著『国家の品格』という本が注目をあびていました。現今の国際社会を覆う西欧文化・価値観の、致命的欠点を明晰に指弾して、それを超えたものとして武士道の再評価を、推薦しています。

 しかし武士道には大きな欠点があります。

以上、野々山師の珠玉の言葉を読み進めてきて、読者の多くは嘆息を禁じ得なかったのではないかと拝察する。なぜならばそこで描かれている「理想像」は余りにも現実とかけ離れており、その間、無尽蔵に失われしものに想いを馳せるならばそうせざるを得なくなるのである。そしてまたその中で惰性と享楽に身をやつし、「ヒト」ではなく「人間」に堕しているこれまた無数の同胞を想う時、「本当に大転換という意味での”その時”は到来するのだろうか」と感じてしまうに違いない。


だが、私自身はあくまでも楽観的である。なぜならばこの「転換」は何も大袈裟な天下国家論から始まるべきことではなく、「日本的霊性」は「商人道・庶民道」、すなわち日々の営みの中における”躾”とそれを尊ぶ心から生じる、「生きること」そのものだからである。したがって覚醒した者は今この瞬間から、すぐその場で始めることが出来るという点で複雑なシステム変更や経典・教義読解を必要とする彼岸のやり方とは大きく異なるのである。そしてまたその意味で私たち日本人全員が当事者であり、プレイヤーであり、変革者でもあることも忘れられないのである。

人って、霊止だったの?: 情報活用で地域をつなぐ

火と水のように相反する性質のものを十字に組んだときに、そこに産土力もしくは観音、すなわち生産力が生じます。火である「男」と水である「女」の産土(むすび)によって生命が誕生し、火である「霊」と水である「体」が結ばれて霊止(人)となるのです。

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