https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

平野幸彦

文化も宗教も一枚岩ではない。単純な二項対立は現実にはあり得ない。文化や社会の中にいる者にも外から眺める者にも、その実態はなかなか捉え得ない。けれども黙してしまうのではなく、百家争鳴を許容する言論環境の中から、それまで見えていなかった観点が浮かび上がってくるかもしれないということ。

Hemmi Tatsuo

冷戦対立が終熄してグローバル化が進んだあと、鵜飼哲先生にある翻訳を託されたことがある。その著書は新自由主義モデルに対抗するフランスの共和国論理を打ち出す議論で、提示される対立そのものは訳しながら辟易するほど図式的でもあった。ただ、なるほどこういう形で自国を表象するかという

Hemmi Tatsuo

感触は掴めたように思う。反グローバル、反新自由主義、反分断を提示するルモンド・ディプロマティーク紙の論調に重なるところも多い(ディプロが英米圏の議論を無視しているわけではないので誤解なきよう)。その原理は多文化主義的な〈差異〉の承認原理とはいくつかポイントが違ってるのだった。

Hemmi Tatsuo

高橋さんの問題の深い掘り下げについて共感するところは多々ある。その一方で、先日興味深く聞いていたラジオの哲学番組で〈テロの哲学〉の専門家三名を集め、〈アイデンティティの承認〉論こそが分断をもたらすという議論に、イスラムの出自をもつ哲学者も含めて同意していたところに、「ああ、

Hemmi Tatsuo

やはりこの議論に辿りつくのか」と思った。イスラムの出自をもつ哲学者は〈自己のイスラム性への哲学的批判〉、すなわち〈神へのsubmission〉への批判的回路を確保すべきところに、現代――「歴史の終わりの終わり」との言葉が使われていた――の課題があると語る。

Hemmi Tatsuo

こうした姿勢は当然ながら主知主義的に映るだろうし、〈批判〉の名の下に民族や文化的なものの括弧入れをしていくことは多文化主義的には〈差別の温存〉にも見えるはず。しかし、共和国には多文化主義が〈文化障壁による社会的遮断と孤立化への道〉という論理も根強い。「友愛・連帯」のスローガン

Hemmi Tatsuo

が何よりも強くポスト冷戦期に使われるようになったのは、そのような文脈があると思う。

Hemmi Tatsuo

ぼくは「おフランス」という新語――冷戦後、特に9.11のあとに米語を通じて日本でも使われるようになったと記憶――に、多文化主義的論理とは異なる統合理念を使う国への皮肉や揶揄、距離化が感じられるように思っているけれど、今回の事件への呟きにもちらほらとそういう語が出ているのを感じる。