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御土居 - Wikipedia

豊臣秀吉によって作られた京都を囲む土塁である。

聚楽第、寺町、天正の地割とともに秀吉による京都改造事業の一つである。

御土居の囲む範囲は南北約8.5km、東西約3.5kmの縦長の形をしている。御土居は必ずしも直線状ではなく、特に西側では数箇所の凹凸がある。

全長は約22.5kmである。北端は北区紫竹の加茂川中学校付近、南端は南区の東寺の南、東端はほぼ現在の河原町通、西端は中京区の山陰本線円町駅付近にあたる。また東部では鴨川(賀茂川)に、北西部では紙屋川(天神川)に沿っており、これらが堀を兼ねていた。

御土居の内部を洛中、外部を洛外と呼ぶことにしたという。

京都と諸国を結ぶ街道が御土居を横切る場所を「口」(「出入り口」の意)と呼んだ。現在でも鞍馬口丹波口、粟田口、荒神口などの地名が残っている。

御土居の上には竹が植えられていた。ルイス・フロイスの『日本史』によると、秀吉が御土居に樹木(竹)を植えさせたのは美観のためであった。

戦国時代後期の都市の多くには惣構と呼ばれる都市全体を囲む防壁があった。当時の京都は応仁の乱後の荒廃により上京と下京の2つの町に分裂し、それぞれに惣構があった。秀吉は京都の町を拡大するためこれらの惣構を取り壊し、それに代わる大規模な惣構として御土居を建設したと考えられている。ただし、防衛のみを目的としたにしては以下に述べるような不自然な点があるとの指摘がある。

御土居の東側は鴨川の西に沿っており、その堤防としての役割を持っていた。御土居が北へ長く延びているのは、この地域で鴨川が氾濫すると京都市街地へ水が流入してしまうためである。

天正18年ごろ秀吉は前田玄以と里村紹巴を召して「洛中の境」を検分したが、東西南北いずれも明瞭でなかった。そこで秀吉は都の境界を末代まで定めることを思い立ち、平安京の歴史を細川幽斎に尋ねた。幽斎は「東は京極迄、北は鴨口、南は九条までを九重の都と号せり。(中略)されば内裏は代々少しづつ替ると申せども洛中洛外の境は聊かも違うことなし。(中略)この京衰え申、ややもすれば戦場となるにつけて、万民跡を止めず都鄙の往来無きによりて自ずと零落す」と答えた。これを聞いて秀吉は「さあらば先ず洛中洛外を定むべし」と諸大名に命じ惣土堤を築かせたという。つまり荒れ果てた京都を復興するためまずその範囲を定めようと御土居を建設したことになる。

北区大宮土居町、鷹峯旧土居町などは御土居の跡がそのままひとつの「町」となったため、細長い形をしている。

北区の「大宮交通公園」バス停はかつて「大宮御土居」といった。

河岸段丘 - Wikipedia
鷹峯 - Wikipedia
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150301#1425206315
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150228#1425120498