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義経=ジンギスカン説 - Wikipedia

信用に足らない俗説・文献が多く、源義経チンギス・ハーン説は否定されているが、信用・信頼できる文献と出来ない文献があり整理する必要があり、注意を要する。

千利休は明智光秀、魂を殺された豊臣秀吉、そしてチンギスハンと源義経 顔の一致|DEGUDEGUのブログ

 「千利休のごとき俳人は、水呑み百姓までが、天下を奪わんと猛り狂っている真只中に、落葉の響き、声に耳を傾けて四畳半裡(うち)に大宇宙をつつみ、欠け茶碗に天地の幽寂を味わって、英雄の心事を憫んでいた。十里の長城、いな土居をめぐらして帝都を復興し、聚楽第を築いて、花洛とともに花も月もおのれ一人の所有となし、桃山城を建設して天下の美人を専し、驕奢(きょうしゃ)と栄華に耽溺(たんでき)し陶酔した豊臣氏に、荒壁造りの茅舎(ぼうしゃ)を見せびらかして飛びつかせ、茶杓(ちゃしゃく)で丸木柱にふんじばってしまった利休は、俳諧史上の逸品である。


外面的には利休は、ついに豊公に殺されたが、内部的精神的からみれば、豊公は利休に殺されたのである。時めく天下の関白が、利休のために、四畳半裡に引きずりこまれて以来の豊公は、もはや以前の豊公ではない。豊公は内部的に利休に殺されて、英雄の分際からただの凡爺(ぼんや)にたちかえって、未見の世界が見られたのは、小不幸中の大幸福だったのである。また利休は豊公に殺されたおかげで、永遠の生命を獲得したのであった」(『明光』昭和四年三月号)。

京都の祇園祭古代イスラエルの祭りによく似ており、七月十七日はノアの方舟アララト山上に漂着した日とされています。

この恋は雲の涯まで - Wikipedia

源頼朝に追われる身となった源義経が、奥州藤原氏アイヌ族(ウタリ)、生涯最愛の女静御前らの助けによりモンゴルに逃れ、チンギス・ハーンになったという伝説をもとにした。また植田の、宝塚グランドロマンを冠した一本立てミュージカルの記念すべき第一作でもある。

この恋は雲の涯まで - 杜けあき - 歌詞&動画視聴 : 歌ネット動画プラス
杜けあき この恋は雲の涯まで 歌詞

この恋は雲の涯まで - 宝塚歌劇 音楽配信サービス|TCAミュージック
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#学者 #哲学部

#強いよぉ


月刊「すみよし」

ところで、この日本人の「宗教観」についての調査報告を読んだあとで、偶々神道国際学会第五回国際シンポジウムの講演録『神道能楽』(神道国際学会・平成十三年二月刊)をみると、同学会副会長であり宝生流能楽嘱託教授深見東州氏の「信仰の具現化をめざして」と題した講演記録が眼にとまった。


まず、深見氏は黒住教の開祖、黒住宗忠の言葉を引用して、つぎのように述べている。


私が能をやっているのは、…まあ自己満足といえば自己満足のようなものですが、黒住教の教祖の黒住宗忠という人が、黒住教の信仰とは、…信仰のお稽古事。頭で考えたりとか理屈じゃなくて、体で覚えることだと言っているのです。しかも基本に忠実に、何度も何度も反復して覚えるという意味もあります。つまり、体で神を感じ、体で神を表現し、体で神と一体となることだといっています。(中略)


私も同じやうに、信仰はお稽古と同じで、体で覚えるものだということで、神々を感じ、神々と一体となり、神々を表現する方法の一つとして、また自分自身の修養の一つとして、能をやっているわけです。それに能だけではなく、オペラも、書も絵もやっておりますし、芝居もやっております。


このように、深見氏は黒住宗忠の言葉をとおして、信仰というのは芸事における稽古と同じであることを強調しているが、稽古には必ず修養、修練というものが伴う。深見氏の場合には、「能」という芸能をとおして、それを実践している。


ところで、舞台に向かうお稽古事というのは、自分の内面を深く磨き、また試すためには絶好の修養場であります。(中略)なぜなのかを考えてみますと、自分が慎み深く一生懸命に最大限の努力をして、そしてそのあとの本番は神様に捧げるつもりでやる。そういう、道ごころに根ざした昔の能楽師のように、道心や信仰のお稽古の修養のつもりでやると、稽古中にいたらぬ自分が見えてくるのでしょう。こういう本番の場数を踏んでいくと、信仰のお稽古や道心の修養、また能楽師としての技量がより本物になっていくわけです。


さらに、深見氏は以上のような実践をとおし、次いでつぎのように指摘している。


黒住宗忠公がおっしゃったように、信仰とはお稽古事と同じで、頭ぢゃない、観念でも理屈でもない、体で感じ、体で表現し、体で実感するものなんだという、これが神道的な一つの信仰形態の原点じゃないかと思っています。私は能の稽古を通してその原点に立ち向かっているのです。(下略)


さらに、以上のような信仰形態をもつ日本人の宗教意識について、深見氏は米国のロバート・ベラー博士の研究を紹介している。つまり、ベラー博士は一九六〇年代に、信仰のない宗教―信心はあっても信仰のない宗教の存在することを説いた。つまり、日本であなたは神を信じますか、宗教がありますかというアンケートの結果では、特に信じてないという答えが七割以上もあったという。しかし、日本人は信じてないわけではなく、初詣でには神社に行く、お盆にはお寺に行くし、法事にも行く。が、もしあなたは宗教を信じていますか、と改めて聞かれた場合には「ノー」と答える。


こうした宗教意識に対し、つぎのように深見氏はコメントしている。


それは日本人の信仰形態を、キリスト教や仏教やイスラム教や新宗教の学者的に、またヨーロッパの観念的なものの見方で見ちゃいけないということで、(中略)信じるか信じないか、そしてなぜ信じるかということではなくて、大事なのは神を感じることなんですね。これが原始信仰形態です。(中略)すなわち、神社の神様というのは、そこに神様がいるということを感じて、信心はあるけれど、信仰があるからお参りするわけではないということです。逆に言いますと、能とかお祭りや儀礼をやっている中で、神を感じるという宗教が成り立つのです。だから知的に神というものを知的に信じて敬って信仰するワーシップ(worship礼拝)のある宗教と神様を感じる信心としての宗教というのは、根本的に違うんだということです。

実は、富山大学の「へルン文庫」に、この末松謙澄の英訳が架蔵されているのである。


読書家の八雲のことゆえ、当然末松の英訳『源氏物語』に目を通していたに違いない。


衣を打つ砧の音や、鳥・虫の声なども登場する、あの「夕顔」の世界は、身近な音に耳を澄まし続けた八雲の世界と通底するものがあるし、また『骨董』所収の「蛍」の中では、八雲は実際、次のように『源氏物語』に言及しているのである。

- ヘルン文庫 - | 富山大学附属図書館中央図書館 University of Toyama Central Library

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20110716#1310823926