https://d1021.hatenadiary.com
http://d1021.hatenablog.com

奉行所の役人はわずか166名 超先進的だった江戸の自治事情(上)|歴史に学ぶ「日本リバイバル」 松元崇(元内閣府事務次官、第一生命経済研究所特別顧問)|ダイヤモンド・オンライン

 明治も半ばになった明治26年に、勝海舟が語った話が『氷川清和』という本に出てくる。勝海舟は「地方自治などいふことは、珍しい名目のやうだけれど、徳川の地方政治は、実に自治の実を挙げたものだヨ。名主といひ、五人組といひ、自身番(警察)といひ、火の番(消防)といひ、みんな自治制度ではないかノー」と言っていた。

 では、その江戸の自治とはどんなものだったのかということだ。まず質問だが、江戸の町は北町奉行南町奉行による月番制、すなわち月ごとの交代で治められていたが、それぞれの奉行所の役人の数は、どれくらいだったと思うだろうか。今日で言えば、東京都に当たる組織の職員数がどれくらいだったかということだ。


 江戸時代には、旗本8万騎と言われて、かなりの数の武士が幕府にはいた。ちなみに、東京都の現在の職員数は16万5000人あまりだ。もっとも、高等学校の先生などが入っているから、そういった職員を除いた知事部局などの職員数に限ると、3万8000人弱である。


 答えは、166名だ。奉行1人、与力25人、同心140人の計166名。たった166人の人数で、今日で言えば東京都の一般行政、警察、裁判所などの業務の元締めを行っていた。何故、そんな少人数で、そんなことができたのかといえば、ほとんどの問題が地域の自治で処理されて、奉行所という「お上」の出番が極めて少なかったからだ。住民生活において生じる様々な問題は、基本的に地域の寄り合いで話し合われ、処理されていた。そこで処理できない、ごく少数の案件だけが「お上」のお世話になっていたのだ。

江戸の町で自治を担っていたのは、町役人と呼ばれた町年寄、町名主、それに家主たちだった。ここで「町役人」と言ったが、今日では役人とは公務員のことであるが、当時の役人とは「何らかの役についている民間人」が多かった。後で、村の自治について説明するときに「村役人」という言葉が出て来るが、それは村で村人のとりまとめをしていた名主や庄屋のことだ。


 ということで、そのような江戸の町役人の数は、町方の人口が53.5万人だった寛政3年(1791年)で2万人余だった。一番上にいたのが、月番制をとる3人の町年寄(樽屋、奈良屋、喜多村)。その下に300名弱の町名主(享保8年、268名)がいたが、なんと言っても主役は、一番末端にいた家主たちだった。


 家主たちのイメージは、落語に出てくる御隠居さんの現役時代の姿と思えばいい。その家主たちを5人ずつにした5人組が、実際の実務を行っていた。勝海舟が『氷川清話』で触れていた「5人組」だ。戸籍(人別帳)の管理、婚姻、養子、遺言、相続廃嫡の立ち会い、幼年者の後見、火消し人足の世話、夜廻、町内の道造りなどを行っていた。5人の家主たちは、寄り合いということで集まって、地域のことを全て決めると同時に、「町入用」という今日で言えば町民税の収納の連帯責任を負っていた。


 それに対して、一般町人である地借人や店家人(たながりにん)はどうしていたかというと、町入用という税金も納めなければ、寄り合いにも参加しない。地域自治のことはすべて大家にお任せだった。実はこの点が、この後説明する村の寄り合いとは違う点だ。村では、地主だけでなく小作人も、村入用、今日でいうところの村民税を負担し、寄り合いにも参加して、地域のことの相談に与かっていた。

 江戸の自治は、業界ごとにも行われていた。旅籠(はたご)、両替、質屋、札差(ふださし)、飛脚、呉服といった業界ごとに寄り合いがあった。また地方においては、「若衆宿」といった若者の自治が行われていた。さらには、「牢名主」という言葉があるように、監獄でも自治が行われていた。

 江戸の町方の自身番は、嘉永3年に990箇所あったが、そこにはその地域の住民が週番で詰めていて、夜の10時には大木戸を閉めた。その後は左右の小木戸を通る通行人を監視していた。そのようなシステムの下で、江戸の長屋住まいの住民は鍵などとは縁のない生活を営んでいたというわけだ。町方の自身番は、今日で言えば、町内会の役員という感じで、その番所は町内の会合や相談所としても利用されていたということなので、警察というのとはちょっと違う感じもするが、武家地に置かれていた辻番は、まさに今日の警察だった。昼は2ないし4名が、夜は4ないし6名が、地域の武家屋敷などから詰めていて、大木戸の開閉といったことだけでなく、所管区域の見廻り、挙動不審者の留置、喧嘩辻斬りの報告、行倒れや泥酔者の介抱などを行っていたのだ(天和3年)。

 かいつまんで説明すると、村で毎年必要になる費用(「経常的な入用」)は、村役人(庄屋や名主といった人たち)が立て替えて支出する。臨時的なものは高持百姓(土地をたくさん持っているという意味で資力がある村民)が集まって相談の上、立て替えて支弁した。そして年末になると、秋の収穫後なので、土地をあまり持っていない百姓も相応の負担ができるようになっており、総入用、つまりそれまでに村役人や高持百姓たちが立て替えていた費用の全額をみんなに割り付けることになる。その際には、高持百姓が立ち会って白紙帳に詳細に記載されている一切の支弁額が正しいかどうかを確認し(改め)、惣(村民全員が参加する自治組織のこと)の百姓みんなが納得(得心)の上、これを割り付けた(割賦した)のである。


 そして、白紙帳に記入されている支出(入用)については、毎年春に代官所など(支配役所)の検閲を受けていた。それは、内容に不審な点があれば、村人なら誰でも代官所などに訴え出ることができることになっていたからだった。当時の村民税(村入用)は、このような透明な手続きで、毎年毎年、課税が行われていたのである。

 このように、毎年毎年、課税が行われることを、単年度課税制度という。

奉行所の役人はわずか166名 超先進的だった江戸の自治事情(下)|歴史に学ぶ「日本リバイバル」 松元崇(元内閣府事務次官、第一生命経済研究所特別顧問)|ダイヤモンド・オンライン

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20151228#1451299402