当たり前のことかもしれないけれど、本居が朱子学の合理主義に対して、源氏や古事記という「文学」をもって対抗したことを考えると、十三世紀の神学者たちがアリストテレス=アヴェロエスの合理主義にたいしてアウグスティヌスという「文学」をもって対峙したことが理解できる気がする。
— Adam Takahashi (@adamtakahashi) 2016, 2月 8
逸見さんは近代における註釈学的伝統から本居に理解を示しているのだけれど、僕もほぼ同じことを考えていた。そう読むとアウグスティヌスの『三位一体』の受容がどうしてラテン的な感性みたいなものを生み出したかというのは、少しは納得いく気がする。
— Adam Takahashi (@adamtakahashi) 2016, 2月 8
もちろん、そのことは井筒はわかっていた。イスラーム世界におけるアリストテレス主義というのが、江戸期における朱子学みたいなものであり、それら合理主義に対する批判として出てくるものが、その地域の感性を生み出すものだと理解していたからだ。井筒がイスラーム「哲学史」に早々と見切りをつけて
— Adam Takahashi (@adamtakahashi) 2016, 2月 8
アリストテレス主義の変形でしかない「哲学」より、「神秘主義」的なものに向かったのは、そういう点で納得できる。
— Adam Takahashi (@adamtakahashi) 2016, 2月 8
13世紀スコラ学におけるアウグスティヌス導入と、宣長による古事記導入との平行性を指摘する高橋さんのコメントに興味を覚えた昨夜であった。自分なりに検討してみたいが、アウグスティヌス原典への註釈学的理解が例えばアリストテレスへのそれと質的に異なるものを含んでいたか高橋さんに伺いたい。
— Hemmi Tatsuo (@camomille0206) 2016, 2月 9
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160207#1454841348
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160207#1454841350
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160207#1454841351
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160207#1454841352
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160207#1454841353
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160207#1454841362(吉田松陰)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150828#1440758235(祖師西来意)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1199095513(宇野精一1)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071223#1199095514(宇野精一2)
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