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#33 那覇  那覇は2つある!? | タモリのブラブラ足跡マップ | ブラタモリ - NHK


那覇市 - Wikipedia

面積は日本の全都道府県庁所在都市の中で最も小さく、人口密度は首都圏と近畿圏を除いた地域としては全国で最も高い。

那覇国場川河口の港で、安里川河口の泊(とまり、現在は那覇市の一部)の港とともに、古くから琉球王国の首都・首里の貿易港として、東アジアや東南アジア一帯の中継貿易拠点として栄えてきた。

かつて那覇国場川安里川の河口の湾に散在した島々で、その一つの浮島は尚巴志王によって小さな港が整備されていた。1451年、尚金福王が明からの冊封使を迎えるため、中国人の懐機に命じて「長虹堤」と呼ばれる長さ1km に及ぶ堤道を建設させて沖縄本島安里川側と繋いだ。陸路交通が整備されたことから港としての発展が始まり、那覇四町(西・東・若狭・泉崎)と呼ばれる市街地が形成された。

近くの久米村には中国・福建省などからの「閩(びん)人三十六姓」(久米三十六姓)と呼ばれる移民が住み、これら三十六姓の末裔は、進貢使・通訳・造船など琉球の貿易と外交を支える仕事に従事してきた。

近代以後も沖縄県の物資集積地、商業都市として繁栄し、海が埋め立てられ那覇は完全に地続きとなった。だが、1944年10月10日の十・十空襲と、1945年4月から始まる沖縄戦により市街地は完全に破壊された。

戦後は、旧那覇市中心部は米軍の管理下に置かれ、軍施設から1マイル以内は立ち入りが許されず、住民の多くは県北部の収容所に移されていた。生活物資不足の解消のため、1945年11月、那覇市壷屋地区の窯業関係者たちがまず帰郷を許され、103人の職人が入市。さらに12月には牧志地区の瓦職人ら136人が入市した。続いて家族や親類縁者が移り住み、これにまぎれて許可のない住民も次々と那覇に住み着いたため、壷屋から新県道(現在の国際通り)の一帯に次々と集落が生まれ、闇市も自然発生的に拡大した。

こうした中、住民の高良一が米軍と直接交渉し、米軍の物資集積所があった新県道沿いの土地(現在のてんぶす那覇あたり)に1948年1月ごろ、映画館「アーニー・パイル国際劇場」を開館させた。以後、周辺は商業地として急速に発展し、新県道は国際通りとして「奇跡の1マイル」と呼ばれるようになる。

波上宮 - Wikipedia

熊野信仰の系列に連なっており、また琉球王国の総鎮守

天尊廟(天尊廟地) | 施設案内 | 一般社団法人 久米崇聖会

長虹堤 - Wikipedia

御物城とは - 歴史民俗用語 Weblio辞書

琉球王朝の宝物庫「御物城」 | 沖縄の風景

当時、那覇の料亭と言えば辻でしたが、風月楼は辻と違い、大和風の料亭でした。料理もヤマトで芸妓もヤマト。政治家や官僚、那覇の実業家などが使う料亭だったようです。

壺屋やちむん通りの魅力に迫る!沖縄の焼物を買うならここで☆ - Find Travel

牧志公設市場 - Wikipedia

第二次世界大戦後、ガーブ川沿いに自然発生的に闇市が興った。川沿いだけでなく川の上にも水上店舗が立ち並ぶ状態だったが、一帯はもともと郊外の湿地帯だったため大雨のたびに洪水が起こり、衛生的にも問題になっていた。陸上の業者は水上店舗により川の許容水量が落ちているとして店舗の一掃を求めたが、水上業者も組合を結成して対抗し、市民間の対立が深刻化していた。
そこで那覇市は公的管理が及ぶ公設市場の必要性を認め、1950年、市が米軍管理用地約9800m²を借地契約し、1951年に牧志公設市場として開設した。

ガーブ川 - Wikipedia

那覇市北西部はかつて浅い海が広がっており、ガーブ川下流部も船増原(樋川付近)まで入り江となっていたが、1451年に長虹堤と呼ばれる堤防が造られてから陸化が進んだ。下流部は昭和初期に至るまで湿地帯であったことから地元の言葉で湿地を意味する「ガーブー」よりガーブ川と名付けられた。


第二次世界大戦後の復興において国際通り近くの川沿いに商店街が形成され、やがて川の上にも店舗(水上店舗)が作られた。周辺の市街地化が進み大雨が降るたびに浸水被害が発生する状況となったため、那覇市都市再開発事業の一環として大規模な改修工事が行われることになった。

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