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» 我、志布志で何と見えしか (連載「パックス・ジャポニカへの道」) | IISIA 株式会社原田武夫国際戦略情報研究所

「そうしたことに関心があるならばむしろ志布志の夏井海岸まで行ってごらんなさい。神武東征の際に最初に停泊したのは夏井だという碑があります。それ以外にも郷土史料が現地にはあるので、それを見れば我が国の”始源“についての様々な発見を得ることになるでしょう」

夏井海岸でたたずみながらスマホ検索をしている時、とあるサイトにある記述が目についたのである。「東串良町教育委員会」だ。その瞬間、私の脳裏には稲妻が走ったのである。「そうだ、郷土史について最も詳しいのは地方自治体の教育委員会であるはず。それではここに照会すれば“神武東征”に関する史料としかるべき説明を得ることができるはず」

神武天皇は鵜茅草葺不合尊の第四皇子で高山町野崎傍畝の辺りで御誕生になり、高山・宮下の辺りで御成長なされ、長じて吾平津姫を妃とされ、後柏原の港より御東遷なされたと言い伝えられている。


 当時柏原と唐仁との間の田地一帯は海であり、港原田地、中ノ島などは入り江であった。今の唐仁、新川西一帯を含めて昔は柏原といっていた由である。


 御東遷に必要な舟、資材は国見山脈の木材をとられ諸準備を唐仁の田畑(入府とも皇神山ともいう)で整えられ、我等の祖先の人々がつき従い皇紀二千年前3月10日唐仁また入府より御船出され、祖先の方々が色々と力を尽くして輝かしい偉業を立てて忠誠を捧げたと言い伝えられている。


 大和地方御平定後は当時の文化は東漸し大和地方に移って行ったと思われるが、今も奈良付記には当地と同名の部落『川西、柏原、古市』など多くの同名の地名がある。


 思うにわが郷土は神武天皇に関しての由緒伝説など数多くある。旧暦3月10日はご出航つ日和見された日であるといい、古来他部落より早く正直より凧つくりと凧揚げをしたり、また早馬があったり、団子を作ったりする風習がある。昔から今に至るまで旧4月3日(しんぐわさにちという)は天皇崩御の日であると各家庭必ず仕事を休んでだんごや煮しめ、餅を作って先祖へ供え神に献ずる習慣が残っている。また国見、黒園、甫与志の三岳に登山する習わしもあり、吾平山上陵に参拝する人たちも多かった。


 柏原松原に鎮座の戸柱神社は神武天皇が御東遷の際途中の航海安全を祈って東仁の田畑に御創建され、それを今より千余年前、今の地に移されたと伝えられている。また川東役所にある産能屋敷は神武天皇御東遷に際し、御準備のため御駐躩(かく)あらせられたところであると言い伝えられている。


 県は紀元2600年(註:1940年)を記念して神武天皇聖蹟調査会を組織され、昭和15年11月9日神武天皇聖跡地として県知事が指定、柏原海岸松林内、戸柱神社の東のほうに『神武天皇御発航伝説地』また山王屋敷に『神武天皇御駐躩』伝説地の記念碑を建立した」

この様にして志布志の地でフィールドワークに励む中、私はある一冊の本を傍らにおいていた。落合莞爾「天皇とワンワールド」(成甲書房)である。

そして同時にこうも想うのだ。「答えは間もなく自ずから出て来る」と。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160430#1462013244

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