「朗読とは人に聞かせるものだ」という思い込みが朗読をつまらなくしている。学校で文章の読み方を教えられるような感じである。はたして読み手がその作品をどう理解し、どう受けとめたのか。そんな感情の感じられない声は死んだ者の声のようである。作品の読みとは、まず読み手の理解の表現なのだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年8月17日
男らしい声も女らしい声も実は表現の声なのだ。表現というのはいわば幻想なのである。だから現実の男の声や女の声をそのまま真似ても少しも表現にはならない。落語の世界では声色は使わない。それぞれの人物の「了見になる」ことをめざす。実際の人の声を真似るのではなく幻想の人物の心情表現なのだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年8月17日
朗読にも修行がある。究極の目標は作品の意味が分かって、それを声で表現できることだ。多くの人たちは作品の意味も考えずに、声に出して作品が読めたつもりでいる。その段階を音楽で言うなら、音程を間違えずに楽器の演奏ができたほどのことだ。曲の表現はその先にある。朗読修行は限りなく続くのだ。
— 渡辺知明 (@WATANABE_tomo) 2016年8月17日