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ワコール伝説をともに築いた2人の同級生|ブラジャーで天下を取った男 創業者・塚本幸一|ダイヤモンド・オンライン

【第20回】

 この時、幸一は川口郁雄という男と再会する。


 柔道部の猛者で、ふだんからたばこを吸い、けんかで停学になったこともある乱暴者だが、その一方で大変な働き者であった。


 父親が事業に失敗して新聞販売店をしていたが、毎朝2時に起きて近江八幡駅に配送されてきた新聞を自転車に積んで12キロ離れた八日市まで運び、少し仮眠した後、学校に行って柔道の朝練をし、放課後にはまた柔道の稽古をして、夕刊の配達を手伝う。まさに驚異的な体力と根性の持ち主であった。


 そんな川口は三菱重工京都機器製作所に入社後、半年で召集。戦後、職場復帰して給与計算の部署で働いていた。


 幸一が同窓会で目をつけたのは、ほかならぬ川口だったのである。それはそうだろう。これほどの働き者が入れば百人力である。


 学生時代は水と油のような性分で気の合わない相手だったが、この際そんなことは関係ない。大企業の三菱重工をやめさせることなど普通出来るはずがないが、それもまた彼には関係ない。最初からだめだなどと思って手をこまねいている男ではないのである。彼は本気で川口を口説き始めた。

 もともと八幡商業には“鶏口となるも牛後となるなかれ”という精神が横溢していた。

 中村も川口と同じく八幡商業柔道部に所属していたが、タイプはまったく違った。まじめで誠実、しかも努力家。絵に描いたような好青年である。八幡商業時代の成績はずっと学年5位以内をキープし、首席で卒業した。


 貧しい母子家庭に育ったが周囲の助けがあり、横浜高商、東京商科大学(現在の一橋大学)へと進むことができた。

「事業は人だ」


 と幸一はよく口にしたが、


「自分よりも学力もある偉い人物が必要だ」


 とも言っていた。


 まさに“自分よりも学力もある偉い人物”こそ、中村伊一その人だったのである。

「おれたちは闇商売で小金を貯めようと思ってる奴らとは違う。うちの商っているのは統制品やない。せやから堂々と商えるんや。そしておれたちが八商で教わったとおり、基本に忠実に、しっかり資金を蓄え、人材を確保し、株式会社を目指していこうと思ってる!」

 この時中村は、別の同級生の会社と和江商事を天秤にかけていたわけではなかったのだ。もうこの段階で、別の会社に行く気はなくなっていた。ただ彼がずっと抱き続けていた、学問の世界に進みたいという思いをあきらめるかどうかで迷っていたのだ。


 今はすぐに難しくとも、世の中が落ち着けば学問の世界に進む道が開けるかもしれない。しかし一方で、中村家の大黒柱として稼がねばならないという思いもある。


 悩みに悩んだ末、滋賀県八日市で評判の手相見に占ってもらおうという気になった。理性的な中村にしては珍しい行動である。


 だがそこでこう言われたのだ。


「教育界に進んだら大学教授になれるかもしれん。じゃが、あんたには世俗的なところがある。一番向いているのは財界の巨頭と言われるような人間の側近としての仕事やろう」

 幸一も中村が相当無理をしてくれていることはわかっている。


「金のことはわしは苦手や。あとは任せたで」


 そう言って、塚本家の実印から貯金通帳から、すべてを経理財務担当の中村に渡してしまった。全幅の信頼を置いたという証しである。


 幸一はこの習慣を後々まで続けた。やがてそれらの印鑑を、伝説の女傑が引き継ぐことになるのだが、それは次回に触れる。


 数年後、室町の木造2階建ての新社屋に引っ越してからも、幸一は用もないのに階段を上がってきて2階で執務している中村に向かって和江商事の将来について熱く夢を語り、また足音高く階段を降りていくということを繰り返した。


 中村のためにも大きな会社にしたいという焦りと、辞められないようなんとかつなぎとめねばという切迫感が、彼にこうした行動をとらせたのだろう。


 人材が“人財”という名のかけがえのない宝だとするならば、川口と中村は幸一が手にした最初の宝であった。

 同年11月1日を和江商事株式会社の新発足の日として定め、株式会社設立準備に入った。資本金をある程度積まなければ信用は生まれない。思い切って100万円と決めた。


 ところがこれは相当な背伸びであり、父親が買いためていた骨董品を売り払っても、設立時に100万円の現金を銀行口座に用意する見通しが立たない。1日でも残高があればいいのだが、それができなかったのだ。


 ここで幸一は一計を案じた。


 10月31日に当時取引をしていた日本勧業銀行の小切手を100万円切って千代田銀行に預け入れ、一方で千代田銀行の小切手100万円を日本勧業銀行に預け入れた。双方の銀行に同じ金額の資金が動くのだから、小切手の交換が終わる翌11月1日の勘定が閉められたら、どちらの銀行の残高にも変化はない。つまり資金はまったく払い込まれていないのだ。


 ところが幸一は勘定が締まる前の11月1日の午前中、千代田銀行にいた八幡商業時代の同級生に頼んで株式払込金の保管証明書を発行してもらい、登記を完了することに成功した。


〈こんな芸当は終戦間もない時代だったからできたようなもので、現代ではとてもできない〉(『私の履歴書』)と後になって幸一は書いている。『ワコール50年史』にも〈事実この方法は1年後、法務省の通達で禁止された〉とあり、非常に綱渡りの方法だったと言えよう。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160823#1471948526
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160817#1471431086