なぜ、優れたリーダーの心には「悪」や「邪」があるのか?|7つの知性を磨く田坂塾|ダイヤモンド・オンライン
では、第二の誤解は、何か?
それは、古典を読むとき、多くの古典が語っている「我欲を捨てる」や「私心を去る」といった言葉を、素朴かつ表面的に受け止め、自分の中の「我欲」や「私心」、言葉を換えれば「小さなエゴ(自我)」を、否定し、捨て去ろうとしてしまうことである。
では、なぜ、これが誤解か?
我々の心の中の「小さなエゴ」は、捨て去ることはできないからである。
その「小さなエゴ」に処する方法は、ただ一つである。
ただ、静かに見つめること。
それが、唯一の方法である。
第三の誤解、それは、古典を読むとき、我々がめざすべき人間像として、一つの理想的な「統一的人格」を心に描き、その人間像を追い求めてしまうことである。
むしろ、我々がめざすべきは、自分の中に、「幾つもの人格」を見出し、育てることであり、それらの人格を、仕事や生活の場面や状況に応じて、適切に切り替える能力を磨いていくことである。
では、その「具体的修行法」とは、何か?
我々が、この人生において、人間を磨き、人間力を高めていくために、どのような場で、どのような修行をすればよいのか?
最早それは修行ではない。
「人はまず、必ず聖人になるのだという志を立てなければならない」
聖人が聖人である理由は、その心が天理と純粋に一体で、人欲の混入がないからであって、それはまるで純金の純金である理由が色合いが完全で、銅や鉛が混じっていないのと同じです。
ある人が、道悦という熱心な心学者に、何のために心学修業をしているのか質問した。道悦が答えて言った。「心学に入ります前は、何事につけても、いちいち為に、為にと、『為』を付けて考えたものでした。仕事に精を出すのは妻子を養うためである、信用を得たいためであるといったように、いつもこの『為』という言葉に縛られ、追っかけまわされて、窮屈なせわしない思いばかりをしていました。ところが、心学の道に入ってからは、この『為』という曲者にとらわれずに工夫修行をするようになりました。
「この心が私欲に覆われていない状態が、すなわち天理(人為でない点の正しい道理)そのものなのです。それ以上外から何かを付け加える必要はないのです。」
「この天理そのままの純な心を発揮して、父に仕えればそれがすなわち孝なのです。発揮して君に仕えれば、それがすなわち忠なのです。さらに友と交わり民を収める時に発したら、それがすなわち信であり仁なのです。ですから、ただこの心から人欲を取り除いて天理を発揮するように努力しさえすれば、それでいいのです」
心と理に区別を設けることは、人間と自然、我と汝の間に区別を設けることと同じである。私欲が生じると、心と理に区別が生じ、人間は自然に対立し、他人に敵対する関係となってしまう。私欲は心の平安をかき乱し、自己分裂の危機をもたらし、判断力を狂わせていく。
欲望を抑えること、抑圧することは、陽明学の勧めるところではない。人欲や悪い想念、良くない思いを無くすことはもちろん奨励する。感情を全面的に抑えつけることは、良い思い、善を喜ぶ思い、人を愛する思いまで否定してしまうことになる。人の為になる、人の役に立つことを喜ぶことも感情体験であり、他人が喜ぶところを見て満足するのも感情体験である。魂も心も生き生きとした状態に保つためにも、感情をただただ抑圧することは百害あって一利なしである。
信じる、という言葉がよく使われる。たとえば、こんな使われ方をしている。「私は神の存在を信じている」「私はキリストの実在を信じている」等である。
厳密にいえば、こういう場合は「信じたい」というべきであろう。なぜなら、もし神の存在を信じているのであれば、その人は神の教えを実践し、まるで神のごとくに生きていなければならないからだ。そうでないのは、信じきれていないから、神のごとくに生きることができないのである。(中略)多くの人々は、いや地上に生きている人々のほとんどが、信じたくても信じきれないで生きている、というのが現実だ。本当に信じて生きている人が、果たして何人いるだろうか。
つまりは、多くの人々は、心の力を、心にある<良知>の存在を信じきれないのだ。心の機能としての信じる力が弱いからだ。
『いまここで老梅樹のことが開演説示されたのでありますが、老梅樹というものはさまざまに変化、発展、展開し、はなはだ限界のない無端なものである。それは一元的に考えるならばたとえば、急に華を咲かせたり、ひとりでに実を結んだりもする。ある場合には春の情景をあらわし、ある場合には冬の情景を示すこともある。つまりそれらは老梅樹の中に摂せられるのである。ある場合には狂風に吹かれ、ある場合には激しい雨にも打たれる。ある場合には僧侶の丸い頭が通り、老梅樹の中に僧侶が摂せられるのである。このようにすべてのものが老梅樹の無限の展開になるのである。これは古仏の眼睛という立場によってものをあるがままに正しく見るならば、無端無限の展開において、一元としての梅に春夏秋冬が摂せられ、あるいは草木が、あるいは清香が摂せられる。それらはそれらのあるがままの姿において、またはたらきによってあるべきようにあるのである。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160822#1471862867(それを道を修める中で行い、道というものを身に付けていくことを唯一の心配事として、他の物事を心配することを減らしていく、ということです。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160820#1471689454(胸裏さらに他意の存するなし)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160813#1471085085(学問の道は他なしその放心を求むるのみ)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160810#1470825141(修行は「捨てる」ことに尽きる。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160303#1457001568(釈尊)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160302#1456915488(牛過窓櫺)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20160102#1451730974(了悟したとは言えない。彼はまだその善悪なるものを解決していない。真性を徹見していない。)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20130524#1369402427(これでは後天的学習を務めて本来性の発揮をなおざりにし、該博なばかりで焦点が定まらない)
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20071226#1198738346(正しい学問とは、意識を純一誠実にすることに他ならない。)