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徳川家康の小山評定(小山軍議)と黒田長政と福島正則

徳川家康は下野国小山で石田治部少輔の挙兵を知って会津征伐を中止し西に... - Yahoo!知恵袋

沼田城 - Wikipedia

小松姫稲姫)は徳川四天王本多忠勝の娘であり真田昌幸の長男・真田信幸の妻である。


関ヶ原の戦いの直前、下野国犬伏で真田父子三人が合議し、父昌幸と信繁は西軍、信之は東軍につくことが決した。昌幸は犬伏を発ち、上田への帰路桐生辺りで「沼田に寄り孫に会いたい」と言い出し、そのまま沼田城を訪れた。小松姫は「たとえ舅であっても敵である」ということから、武装した姿で対応し城門を開かず追い返した。後に、自ら子供を連れて昌幸のもとを訪れ、舅の願いを叶えた。このことについて、昌幸・信繁は大いに感心したと言う。


一方で昌幸には沼田城に立ち寄りそのまま城を奪取する意図があったとも言われ、小松姫はそれを見越した上で穏便に解決したとも言われる。

沼田城の見どころと小松姫の墓を偲ぶスポット〜沼田城訪問記・写真集 -真田丸

上田城 - Wikipedia

上田合戦 - Wikipedia

徳川家康率いる東軍は、下野国小山において三成ら西軍の挙兵を知って、軍を西に返した。この時、家康の本隊や豊臣恩顧大名などの先発隊は東海道を進んだが、徳川秀忠率いる3万8000人の軍勢は中山道を進んで西に向かった。そしてその進路に、真田父子の上田城があった。


9月2日に小諸に到着した秀忠は[1]、9月3日、上田に接近した徳川軍に対して、昌幸は嫡男・信之を通して助命を懇願してきたので秀忠はこれを受諾する、ところが4日になり昌幸は態度を変え秀忠に対して挑発的な態度をとったため戦闘状態に入った。


秀忠軍は9月5日、上田城に接近し、真田信繁の守る上田城の支城・戸石城に対し、信繁の兄である信之の軍勢を差し向ける。徳川首脳陣には真田一族である信之に疑念を覚える者が多く、実弟と戦わせることによって信之の心中を試すと同時に万が一に備えて上田城攻めから遠ざけようとしたと言われている。迫り来る軍勢の大将が兄である事を知った信繁は兄弟で争う事を嫌い、あっさりと城を捨て上田城に引き上げた。信之軍は戦わずして戸石城を接収し、勝鬨を上げる。これは、信繁が、父弟が敵方に回り、東軍内での立場が危うかった信之に手柄を上げさせ、信之に対する秀忠の信用を高めようとしたため、また、信之軍を戸石城に釘付けにする事により、結果的に上田城に攻め寄せるであろう兵を減殺すると同時に、信之を上田城攻めから外させ、真田一族での同士討ちを回避しようとしたためと言われている。事実、信繁が戦わずして戸石城を信之に明け渡したことにより、東西両軍の真田勢も城も傷つかずに済んだ。


戸石城を落とした後、秀忠軍は早速上田城の攻略に取り掛かる。短期決戦を狙う秀忠は真田軍を城から誘き出すため、城下の田畑の稲を刈り取る苅田戦法を取り、9月8日、牧野康成率いる手勢が上田城下の稲の刈り取りを始めた。徳川方の狙い通り、苅田を阻止しようと真田方の軍勢数百人が城から出てきた。そこへ、後備えとして潜んでいた本多忠政隊が襲い掛かり、真田勢は敗れ、上田城へと逃走。それを酒井、牧野、本多の各隊が追撃し、上田城大手門前まで迫った。


それらの流れは全て昌幸の作戦であった。徳川勢が上田城の大手門へと迫ったとき、門が開き、門の向こう側で待ち構えていた真田の鉄砲隊が射撃を浴びせた。さらに城内からも銃矢が攻撃をし、徳川方の先鋒は混乱に陥った。徳川勢は逃走する真田勢を追撃していたため、大手門に到達した時は隊列・陣形共に型を成さない状態に陥っていた。このため、反撃を浴びて崩された先鋒隊が撤退しようとするも、後続の軍勢と鉢合わせになり進退窮まったところへ、城内から真田勢が討て出て徳川軍を打ち破った。


さらに昌幸は徳川勢に追い打ちをかけた。前日の夜に上田城を出て染谷台の北東に潜んでいた信繁隊200が秀忠本陣に奇襲をかけた。信繁隊は鉄砲を一斉に撃ちかけ、秀忠本陣に攻めこんだ。秀忠自身は家臣に馬を与えられ、小諸へと逃れた。また昌幸は神川の上流に堤防を築き、神川を密かに塞き止めており、信繁の合図で堤防が切られると、大量の水が濁流となって染谷台に押し寄せ、真田勢に追われていた神川付近の多くの徳川勢の人馬が飲み込まれる事となり、第二次上田合戦は真田方の勝利に終わった。


このときのことを『烈祖成蹟』は「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」と記している。秀忠は上田城が予想外に頑強であることに驚き、9日に一旦全軍を小諸へと撤収させた。しかしその直後になって家康の書状を携えた使者が到着。その内容が「九月九日までに美濃赤坂へ着陣すべし」というものだった。秀忠は上田城に押さえの兵を残して先を急ぐことにする。しかし、この上田での遅延だけでなく道中の悪天候も災いして、遂に9月15日の関ヶ原本戦に遅参してしまった。いずれにしても秀忠が上田城攻めを諦めたのは、本多正信らの諫言などではなく、家康の作戦方針の転換による急な参陣命令に従ったまでなのである、つまり秀忠は上田城を攻めあぐねたのではなく、それに専念する時間的な余裕を失い、打倒昌幸という本来の任務を中断せざるをえなくなったまでなのである。上田攻めに秀忠が専念していれば、結果は違ったものになった可能性が高いと指摘されている。

小諸城 - Wikipedia

平野長泰 - Wikipedia

大いなる謎 真田一族: 最新研究でわかった100の真実 - 平山優 - Google ブックス

戸石城 - Wikipedia

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは中山道を西へ進む東軍の徳川秀忠率いる軍勢に対し、西軍に属した真田昌幸上田城においてこれを迎撃し、秀忠は東軍に属していた真田信幸(信之)に砥石城攻めを命じ、9月5日に城を明け渡させている。

岐阜城 - Wikipedia

1600年(慶長5年) - 織田秀信は、石田三成の挙兵に呼応し西軍につく。関ヶ原の戦いの前哨戦で、岐阜城に立てこもるが、福島正則池田輝政らに攻められて落城。

岐阜城の戦い - Wikipedia

福島正則 - Wikipedia

慶長5年(1600年)の会津征伐には6,000人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けての小山評定では、家康の意を受けた黒田長政にあらかじめ懐柔されていた正則が三成挙兵に動揺する諸大名の機先を制して、いち早く家康の味方につくことを誓約し、反転して西上する方針が決定する。清洲から美濃方面に進軍し、西軍の織田秀信が守る岐阜城攻めでは池田輝政と先鋒を争い、黒田長政らと共同で城を陥落させる。


関ヶ原の戦いでは、宇喜多秀家勢1万7,000と戦闘を行った。 宇喜多勢の前衛8,000を率いた明石全登に、福島勢は一時退却を余儀なくされたが、なんとか宇喜多勢の進撃を防ぎ切ることに成功する。


やがて小早川秀秋背信を機に、西軍の戦線は次々に崩壊した。宇喜多勢は、開戦時から戦っていたため疲労が頂点に達し、東軍による集中攻撃に持ち堪えられなくなり、壊滅した。正則は西軍総大将・毛利輝元からの大坂城接収にも奔走し、戦後安芸広島と備後鞆49万8,000石を得た(広島藩)。

関ヶ原の戦い - Wikipedia

石田はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動した。しかし、加藤清正黒田長政の妻子が逃亡、さらに細川忠興正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害するなど失敗に終わった。


この諸大名の妻子を人質に取る作戦は、ガラシャの死の壮絶さに石田方が驚き、天守閣に集める行動を、むやみに拡大することはなかった。


そこで、翌18日、西軍は鳥居元忠が預かる伏見城に、輝元の名で開城要求を勧告した。城将の一人木下勝俊は要請に応じ伏見城を退去したが、元忠は拒絶。明くる7月19日から伏見城の戦いが行われる。伏見城宇喜多秀家小早川秀秋島津義弘ら4万の大軍により攻められ、8月1日に陥落した。


伏見城陥落後、三成は家康に味方する細川幽斎が籠る、丹後国の田辺城を制圧するため、親密な関係にあった小野木重勝を総大将に1万5,000の軍勢を丹後に差し向け、宇喜多秀家を総大将に毛利秀元鍋島勝茂など約3万の軍勢を、伊勢国平定に送り込んだ。大谷吉継北陸道平定に向かい、三成自身は美濃方面を抑えるため、8月10日に佐和山城から西軍の拠点をなす大垣城に入った。その先の岐阜城には織田信長の嫡孫である織田秀信が城主として拠っていたが、秀頼の後見と美濃・尾張加増を条件に西軍へ引き入れることに成功する。

この頃、家康は会津征伐のために江戸城に居たが、7月19日に一通の書状が家康に届けられた。差出人は西軍首脳の一人である増田長盛であり、三成らが家康打倒の謀議を行っているという内容であった。その後も長盛からの書状は届けられており、この書状を送った時点では長盛は石田方には与していない。また淀殿も石田・大谷の動きを鎮圧するよう要請を送っている。しかし家康はそのまま7月21日には江戸城を発ち、7月24日に下野小山に到着。ここで三成が挙兵し伏見城攻撃を開始したことを鳥居元忠の使者によって知らされた。


家康は会津征伐に従軍した諸大名を招集し、翌25日に今後の方針について軍議を催した。いわゆる小山評定である。家康にとって最大の問題は、東海道東山道に所領を有する豊臣恩顧の武将たちが、どのような態度をとるかであった。三成挙兵の報は彼らの耳にも届いており、動揺するとともに判断に苦慮していた。そのため、家康の命を受けた黒田長政福島正則に秀頼には害が及ばないこと、三成が秀頼のためにならないことを説明し、東軍につく態度を鮮明にするよう説得した。


なお、この時点では「内府ちがひの条々」はまだ小山に届いておらず、毛利輝元大坂城で秀頼を擁して石田方の総大将になっていることは、家康以下諸将の知るところではなかった。さきに届いた淀殿や三奉行からの鎮定要請に基づき、大坂城からの指示に従っている形式を保っていた。


評定では、山岡道阿弥・板部岡江雪斎から情勢の説明と、妻子が人質になっているため進退は各自の自由であるとの、家康の意向が伝えられた。すると正則が大坂のことは考えず、家康に味方することを表明。黒田・徳永寿昌がこれに続き、ほぼ全ての従軍諸将が家康に従うことを誓約した。その一方で信濃上田城主である真田昌幸と、美濃岩村城主である田丸直昌はこれに与せず、西軍へ退転する。
つづいて山内一豊が自らの居城掛川城の提供を申し出、東海道筋の諸大名がこれにならった。この案は堀尾忠氏(一豊の盟友、堀尾吉晴の子)と事前に協議したもので、さらに正則が秀吉より預かっていた、非常用兵糧20万石も家康に提供すると表明。秀吉が家康封じ込めのために配置した、東海道筋の諸城と兵糧を確保したことで、東軍の軍事展開と前線への兵力投入が容易となった。


以上のように評定が展開した背景として、東海道筋の大名が秀次事件以降に家康との接近を強めたためとする指摘がある。


諸将が提供した居城には松平康重松平家乗、内藤信成保科正光、北条氏勝ら徳川譜代の武将が城将として入城し、守備に当たった。


三成迎撃で評定が決定すると、諸大名は7月26日以降続々と陣を払い、正則の居城である尾張清洲城を目指し出陣。また伊勢方面に所領を持つ富田信高、古田重勝、氏家行広、福島正頼、九鬼守隆らは居城防備のため各居城へ戻った。家康は徳川秀忠榊原康政や大久保忠隣、参謀に家康の懐刀である本多正信を添えた約3万8,000の軍勢を付けて、中山道より美濃方面への進軍を命じ、8月4日には出陣した。一方上杉・佐竹への抑えとして、自身の次男で武勇に優れていた結城秀康を総大将に、里見義康、蒲生秀行、那須資景らを宇都宮城に留め、監視させた。家康は江戸城に戻るが、そこから一歩も動かなくなった。『内府ちがひの条々』の内容が東軍側にも伝わり、豊臣恩顧の武将たちの動向が不透明となる危惧が発生したためである。

三成は真田昌幸への書状の中で、尾張三河国境付近で東軍を迎撃、背後より上杉・佐竹軍と挟撃することで勝利をする目算であると言っている。そのため早急に美濃・伊勢を平定して尾張になだれ込む必要があった。伊勢路を進む宇喜多秀家ら西軍の軍勢約3万は、筒井定次の居城・伊賀上野城を開城させ(上野城の戦い)、その後富田信高、分部光嘉が籠る安濃津城(安濃津城の戦い)、古田重勝松坂城などを攻略し8月までには陥落させる。その後さらに北上を進め尾張攻略を目指し、桑名城の氏家行広・氏家行継兄弟を西軍に加担させるが、東軍先発部隊が清洲城に集結するとの報を得て、福島正頼・山岡景友の拠る長島城攻撃を諦め、三成の居る大垣城へと向かった。この時点で三成の尾張三河で東軍を迎撃する戦略は破綻し、木曽川で迎撃する方針へと修正した。さらに背後を挟撃する予定の上杉景勝は、徳川軍を攻撃せずに軍勢を山形方面の最上義光領へと向ける。佐竹軍は、当主である佐竹義宣が主張した西軍への参加に、父・佐竹義重や弟、重臣一同らの猛反対により、義宣は意見を押し切ることができず、佐竹義久に少数の兵をつけて秀忠軍に派遣するなどの曖昧な態度に終わり、がら空きだった関東の家康領に雪崩れ込まなかった。結局、佐竹義宣上杉景勝という関東、東北の2大大名が大坂へ向かう徳川軍を攻撃しなかったことは、三成にとって大誤算だった。なお、鍋島勝茂は父・直茂の命により美濃・伊勢国境付近に留まり、大垣城に向かう宇喜多・毛利軍などから離脱、以降西軍の軍事行動には加わらず傍観した。


小山評定を終え、東軍諸大名が清洲城を目指し西進を開始した後も、家康は動向が不明な背後の佐竹義宣に対する危険から江戸に留まり、藤堂高虎黒田長政らを使って諸将に書状を送り続け、豊臣恩顧の武将の東軍繋ぎ止めと、西軍の調略による切り崩しを図った。黒田は吉川広家に毛利家所領の安堵を、小早川秀秋に、高台院への忠節を説いて内応を約束させる。江戸城内で家康が東軍諸大名などに宛てた書状は約200通にも及び、家康の書状による情報処理は、その後の戦いの雌雄を決定付けることになる。一方、三成が西軍諸大名に宛てた書状は家康のそれよりも少なく、真田昌幸からは「なぜ挙兵前に(挙兵の意思を)知らせなかったのか」と、返書で問われている。

家康が書状作戦を展開している頃、正則ら東軍先鋒は清洲城に集結したが、その後一向に家康からの音沙汰がなく、正則は、自分たちを捨石にするのかと激怒。家康の娘婿である池田輝政がこれに反発して、口論したと伝えられている。しかし家康の使者・村越直吉が来着し「なぜ早く美濃攻略に掛からないのか」と尋ねられるや、正則ら東軍諸大名は勇躍して美濃へとなだれ込んだ。8月22日に輝政らが河田(現一宮市)より木曽川を渡り、米野村(現笠松町)付近で西軍と激突(河田木曽川渡河の戦い、米野の戦い)。加賀野井(現羽島市)から渡河した正則らも竹ヶ鼻城を陥落させ(竹ヶ鼻城の戦い)、その後東軍はさらに進軍し、翌日、織田秀信が城主の岐阜城を落とした(岐阜城の戦い)。城主である秀信は、正則や輝政の助命嘆願もあって弟の織田秀則と共に高野山へ追放され、のちにその地で病没。織田氏本宗家は断絶した。

岐阜城が落ちたのを知ると、家康は五男の武田信吉浅野長政らに江戸城留守居を命じて、9月1日に約3万3,000の兵とともに出陣し、東海道を大坂方面へと西上した。一方、秀忠隊3万8000は中山道を進んだが、9月3日から8日にかけて真田昌幸2000が籠もる上田城を攻略し損ねた上、足止めを食らい、関ヶ原の戦いには間に合わなかった。しかし、実際は秀忠軍が家康から受けた当初の任務は中山道の制圧であり、上田城攻城は秀忠の独断ではなく家康の直近の命令に沿ったものである。家康の西進の知らせと関ヶ原への合流という新たな命令は利根川の増水により使者が遅れ、秀忠の手に渡ったのは9月9日であり15日に関ヶ原に布陣するのはすでに不可能であった。