今夜『真田丸』第45回の放送です!
— NHK大河ドラマ 真田丸 (@nhk_sanadamaru) 2016年11月13日
第45回「完封」
[総合]午後8時00分〜
[BSプレミアム]午後6時00分〜
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賤ヶ岳の七本槍、七将の一人。
賤ヶ岳の七本槍の1人。
慶長20年(1615年)の大坂の陣では一転して旧恩に報いようと豊臣方に合流しようと奔走し、家康に直訴したが、許されずに江戸留守居役を命じられた。
夜が明けると、前田勢を真田勢が挑発した。前田勢はその挑発に乗ってしまい、真田丸に攻めかけた。真田勢は、前田勢が充分城壁にとりついたところに銃撃を浴びせ、前田勢に損害を与えた。前田利常は、将達が命令なく攻撃したことに怒り、兵を撤収させようとした。
前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。
これらの惨状を知った家康は退却を命じた。しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、15時をすぎようやく完了した。
退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。
講和内容は豊臣家側の条件として
・本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋めること。
・淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと。
が提出され、これに対し徳川家が
・秀頼の身の安全と本領の安堵。
・城中諸士についての不問。
を約すことで、和議は成立している。この他、秀頼・淀殿の関東下向を行わなくて良い事も決められた(ただし、二の丸の破壊をしなくても良いという史料もある)。
和議条件の内、城の破却と堀の埋め立ては二の丸が豊臣家、三の丸と外堀は徳川家の持ち分と決められていた。この城割(城の破却)に関しては古来より行われているが、大抵は堀の一部を埋めたり、土塁の角を崩すといった儀礼的なものであった。
しかし、徳川側は徹底的な破壊を実行する。
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣では茶臼山一帯が徳川家康の本陣となり、翌1615年(慶長20年)の大坂夏の陣では真田信繁(幸村)の本陣となって「茶臼山の戦い(天王寺口の戦い)」の舞台となった。