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松下幸之助に学んだ伝説の「50年計画」|ブラジャーで天下を取った男 ワコール創業者・塚本幸一|ダイヤモンド・オンライン

【第23回】

 50年計画にはモデルがあった。松下幸之助の「250年計画」である。


 それは関西経済界における“レジェンド”だった。一代でわが国有数の家電メーカーを作り上げた松下幸之助。その松下は昭和7年(1932年)3月、天理教本部を視察に行って衝撃を受けた。


 自分は給料を払い、役職を与え、ありとあらゆる方法で、社員にやる気を出して働いてもらうための工夫を凝らしている。ところが天理教の信者たちは、給料をもらうどころか逆に率先して寄進までしながら、新本殿建設に汗をかいている。


 (何が彼らをここまで一生懸命にしてるんや……)


 天理からの帰りの汽車で考えに考えた彼は、ある結論に達した。


 それは、社員に会社の持つ社会使命をしっかり認識させ、その使命実現のための具体的スケジュールを共有化せねばならない、ということであった。


 それこそが「水道哲学」と呼ばれる“電気製品を水道水のように安価で大量に消費者に届けることこそ松下電器の社会的使命である”という考え方と、それを達成するための「250年計画」だ。250年を10節に分割し、25年をさらに3期に分け、第1期の10年は建設時代、次の10年は活動時代、最後の5年は世間に対する貢献時代とし、それを10回繰り返そうという遠大な計画だった。


昭和7年5月5日、松下は大阪堂島浜の中央電気倶楽部講堂に、幹部社員168名を集めてそれを発表した。


「生産をしよう。生産につぐ生産をして、物資を無尽蔵にしよう。無尽蔵の物資によって、貧窮のない楽土を建設しよう。それが松下電器の使命である。本年を創業命知元年とする。『命知』とは、真の使命を知ったということである。忘れないでほしい。今ここから、この日から、人類を救済する事業がはじまるのだということを!」


 この松下の演説は熱狂を持って受け止められた。自分も賛同し懸命に努力すると、社員が1人ずつ壇上に上がって自らの言葉で語り、感動を分かち合ったのだ。一種のトランス状態と言っていいだろう。


 この時、松下は37歳という若さであった。


 関西の人間なら“今太閤”と呼ばれた松下のことを知らぬはずはない。


 後年、幸一は親友の千宗興(現在の裏千家 千玄室大宗匠)から松下を紹介してもらい、生後間もなく亡くなった長男と同じ名前で年も3つしか違わない奇縁もあって息子のようにかわいがってもらうのだが、この当時はまだ仰ぎ見る存在でしかない。それでも、


 (よし、俺もやってやる)


 と、“命知元年”を宣言したときの松下よりさらに若い、29歳の幸一は思ったのだ。


塚本幸一という経営者の美点の一つに、先人の成功体験を素直な気持ちで吸収し、仕事に生かすという点がある。この時がまさにそうだった。

「我々はこれから世界一の下着メーカーを目指す。そのために10年1節の50年計画を考えた。最初の10年で国内市場を開拓し、次の10年で国内における地位を確固たるものにする。70年代から80年代にかけては海外市場の開拓に注力し、90年代にはブランドを確立して世界企業になるんや! そこで、まず手始めに3年で親父の墓を建てる。そして10年で自社ビルを建築し、従業員は1200人くらいにする!」 


 目の前にいる9名の社員はみな口をポカンと開けたままだ。


 気宇壮大さに打たれたからではない。明日にも倒産しそうな会社が何を言っているのかと、呆れてものが言えなかったのである。

 結局この時、社員の間に幸一の期待した熱狂は起きず、完全な肩すかしに終わった。


 だが塚本幸一という経営者が、ある種の“伝説”として語られるようになるのは、この時社員の誰もが本気にしなかったこの50年計画を、黙々と実現し続けていったからである。

〈根性とは信念を持ち、長期の正しい計画を持ち、どのような困難にも打ち勝ち、そのために何年かかろうが、どのような迫害にあおうが、やり抜き、やり遂げることだと私は信じている。これはセールスマンというかっこよさからは出てこないものである。だから、私は商人とか、マーチャントという言葉が好きだ〉


 そう記した彼の最後の著書のタイトルは『貫く「創業」の精神』


 まさにそれが商人塚本幸一の信念だった。


 実際、幸一はよく“貫く”と揮毫した。


 女性下着市場の将来性に対する揺るぎない確信と、50年計画で示した道筋を、まるで人生を貫く一本の道のように、愚直なまで忠実に歩み続けていくのである。


「そのうち『あの社長が言いはるんやったら』と思えるようになっていったんです」


 内田は遠い昔を懐かしむような目をしながら語ってくれた。

 幸一の口癖は決まっていた。


「皆と同じ事をしていたのではダメだ。人の三倍も五倍も、否十倍も頭を使い、身体を働かさなければ人の上には立てない」(塚本良枝「夫としての塚本幸一」『ワコールうらばなし』)

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