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この発掘調査は、専門家と地元の住民などで作る協議会が江戸時代の絵図をもとに真田丸の南の端付近だったと見られる大阪・天王寺区の駐車場で先月から行いました。


協議会によりますと、真田丸の学術的な発掘調査は初めてで、調査の結果、地下およそ1メートルほどの深さで周囲の地層とは違う黄色の土の層が見つかりました。この土の層は自然に堆積したものとは違う形状になっていることなどから人工的な盛り土の跡とみられ、真田丸の基礎の一部の可能性があるということです。


また、発掘に先立って行われた航空写真の分析や地下のレーダー探査では、この付近の東側と西側、それに南側の三方を囲むように堀と見られる跡が確認され、真田丸の堀と推定されるということです。このうち南側の堀と見られる跡は幅およそ40メートル、深さが10メートル以上、長さはこれまで考えられていたよりも50メートルほど長い300メートルほどあり、真田丸が大きな堀を備えた四角形の出城だった可能性が高いということです。


発掘調査を行った「『真田丸』発掘推進協議会」の会長で奈良大学千田嘉博教授は、「市民の協力で発掘調査が実現した。真田丸は徳川方に完全に破壊されたとされていたが、痕跡が残っている可能性が出てきた。とてもロマンを感じる発見だ」と話していました。

真田丸は、豊臣秀頼徳川家康の軍勢が戦った「大坂冬の陣」で、豊臣方の武将で真田幸村の名で知られる信繁が、大坂城の南側にあたる現在の大阪・天王寺区付近に築いたとされる出城です。


当時、大坂城は「難攻不落の城」とされていましたが、南側は平野で空堀しかなく、徳川方との決戦を前に弱点を補うために作られたとされています。当時の記録などによりますと、真田丸は上下2段構えの射撃構造や堀を備えた出城で、冬の陣では5000人ほどの兵が籠もって、徳川方に1万人以上の死者を出す大きな被害を与えたと言われています。


しかし、真田丸は、冬の陣のあと徳川方に跡形も無く破壊され、詳しい場所や構造などについても、ほとんど史料が残っておらず、謎の出城となっていました。