人事担当役員と人事部長が泣いた夜 人間力の大切さを教えられ
— 法と経済のジャーナル AJ (@asahi_judiciary) 2017年6月12日
サラリーマン経験から学んだこと - 法と経済のジャーナル Asahi Judiciary https://t.co/WbRJ8RiCvo
私は、いわゆる司法浪人を1年やった後で、電機メーカーの100%子会社であるソフトウェア会社に就職した(というよりも、拾っていただいた)。司法試験不合格の発表後に届いた成績表では、すべての科目が「A」評価(最高評価)であり、これ以上やっても、自分はこの試験に縁がないと思ったからである。当時は、司法試験制度改革の試行錯誤がなされており、そういうことがあり得たのだと思う。
私は、その会社が「法務担当者」を募集しているという記事(当時は、比較的珍しかった)を情報誌で見つけ、早速、面接を申し込んだ。役員面接までたどり着いてみると、人事担当役員は、大柄でとても怖そうな人だった。「君、司法試験はどうするのかね?」と想定どおりの質問をされた私は、「はい、やめます」と即答した。すると、あろうことか、人事担当役員は、「君、何を言っているのかね。仕事もやるから、試験も続けなさい」とものすごく大きな声で言った。目が点になった。そして、私は、採用された。
最初の配属は、人事総務部だった。「法務担当じゃなかったのか?」と憤りを感じないでもなかったが、サラリーマンになった以上、仕方がなかった。配属されて最初の仕事は、元社長の葬儀の「看板(☞)」持ちだった。
その後、私は、人事異動の担当主任になった。人事担当役員は、異動の辞令の際に、「清水君、組織は、人なんだ。人を大事にしない組織は、長続きしない。それを肝に銘じて、職務を遂行しなさい」と言った。ところが、その直後、私たちは、この言葉の重みを痛感する事態に遭遇する。親会社の業績悪化に伴い、リストラの指示が下ったのだ。人事担当役員は、私が人事異動担当主任になるのとほぼ同時期に親会社から派遣された人事部長と一緒に、親会社と何度も交渉した。いまのメガバンクの統合時期に当たっていて、私たちの会社の業績はまったく悪くなかった(というよりも、大幅黒字だった)からである。
すべての作業を終えたとき、人事担当役員と人事部長と私は、JR大森駅前の「養老乃瀧」にいた。最初に泣いたのは、人事担当役員だった。「人を切るのは麻薬だ。これは間違っている。人を大事にしない組織は、長続きしない」と言って、彼は、泣いた。次に泣いたのは、人事部長だった。「人を切る仕事は、人事の仕事じゃない。人を育てるのが人事の仕事なんだ」と言って、彼は、泣いた。結局、私にだけは、泣くチャンスを与えてもらえなかった。私は、人事マンとしての自分をリストラして、人事に別れを告げ、法務へ異動した。
エピソードは尽きないのだが、最終的に、私は、法務と社長秘書を実質的に兼任しているときに、司法試験に合格した。その年、人事担当役員と人事部長と私は、短期間で、東京証券取引所に会社を上場させるミッションを負っていた。私は、司法試験場に体を運ぶことができないのではないか、試験場に行けたとしても、疲れで寝てしまうだけではないか、というくらいに忙しかった。当然、勉強などほとんどする時間はなく、旧商法末期に会社関係の改正が連続する中で、条文がどうなっているのかさっぱり理解できていなかった。
論文試験の合格発表の日、「これから発表を見に行ってきます」と伝えた私に、人事部長は、「お前、今年は受かっているぞ。顔にそう書いてある」と言った。私自身には分かっていなかったが、周囲にはそう見えていたらしい。確かに、合格していた。その瞬間、嬉しさとともに、会社を辞めたくない、という強い思いが私の頭をよぎった。人生の選択をすべきときだった。
最終合格後、私は、会社のために働きたいと思ったのだが、当時はインハウスロイヤーの前例もあまりなく、司法修習へ行くために会社を一時休職するなどの柔軟な制度構造にはなっていなかった。人事担当役員と人事部長は、口を揃えて、「君は弁護士になりたかったんじゃないのか?」と言った。一瞬、私は、自分がなぜ司法試験を受けていたのかよく分からなくなったが、悩んだ末、法曹への道を選んだ。それでも、会社の役には立てると思ったからである。
大森海岸の寿司屋で送別会をしてもらったとき、人事担当役員は、「君は、つむじ風みたいな人だな。楽しかったよ」と言ってくれた。彼は、また泣いていた。
人事部長は、私が弁護士になってすぐに、49歳の若さで亡くなった。スキルス胃がんだった。リストラ以降、私を指導しながら様々な激務をこなす中で、人事部長は、体にかなりの負担をかけていたと思う。笑いながら「あ、痛たた、胃が痛い」と言う人事部長に、「病院に行ってください」と何度も勧めたが、多忙を理由に、行く気配すらなかった。人事部長が病院へ行ったのは、すべてが落ち着いた、私の司法試験合格後だった。
当時、某事務所のアソシエイトだった私には、この大切な恩人の葬儀に出席することすら叶わなかった。仕事に区切りをつけて、パートナーの了解を得て、大急ぎで斎場に到着したとき、故人を乗せた棺は、火葬場へ向かうところだった。私は、自分がとても無礼な人間だと思った。こんなことのために弁護士になったのではないと思った。
いま、私が(司法研修所で強く誘っていただいた検察官ではなく)弁護士を選び、企業法務を選んだのは、会社で私に貴重な経験と勉強をさせてくださったすべての方々へのご恩返しをしたいと考えたからである。
アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー、名古屋オフィス代表。
1998年3月、東京大学法学部卒業。2001年2月〜2004年3月、株式会社日立システムアンドサービス(現 株式会社日立ソリューションズ)勤務。2005年10月、司法修習(58期)を経て弁護士登録(第一東京弁護士会)、西村あさひ法律事務所入所。2008年4月〜2011年3月、トヨタ自動車株式会社 知的財産部出向。2011年4月〜2016年3月、大野総合法律事務所勤務。2012年10月、愛知県弁護士会へ登録換え。2016年4月、当事務所入所。
個別のサブシステムを集めて1つにまとめ上げ、それぞれの機能が正しく働くように完成させる「システムインテグレーション」を行なう企業のことである。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170611#1497177474
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170610#1497090984
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20150108#1420713487(研究者になるまで)
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