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図書カード:法学とは何か

 もっとも、法学部に入ってくる学生のことだから、彼らのすべてが初めから法学に多少とも興味を持っているに違いないと思うのがそもそもの間違いで、学生の多数は、法学に志しているのではなくして、単に法学部を卒業すること、そしてできればなるべく良い成績で卒業することを志しているにすぎないから、彼らにとっては、学問そのものはどうでもよいのである。だから、卒業後司法官や弁護士のような法律関係の職業に向おうとする少数の学生以外の者にとっては、学問は要するに受験の具にすぎなかったので、私がその後大学に在職している間に高文試験制度が変って法律関係の試験科目が減ると、それを機会に法律学科の学生が急に減って――法学科目の少ない――政治学科の学生が激増したるがごときは、まさにこの傾向を如実に反映したものと言うことができる。
 だから、当時我々は、ドイツの或る学者が法学は要するに「パンの学問」Brotwis-senschaft にすぎないと言ったという説を聞いても、深くその意味を考えてみようともしなかった。また、卒業後官庁や会社に入って相当出世した先輩たちの、「大学で習ったことそれ自身は何の役にも立たない、習ったことをすっかり忘れてしまった頃になって初めて一人前の役人なり会社員になれるのだ」というような話を聞いても、なるほどそういうものかなと感心するぐらいのことで、深くその訳を考えてみる気さえ起さなかったような次第であった。今から考えれば――後に記すように――、この先輩の話にも、「パンの学問」にも、なかなか面白い意味があるのだが、当時としては全くそうしたことに気づかないのが実情であった。
 そういう事情であったから、法学部の講義の中心をなしていた憲法とか民法とかいうようなものは、要するに、現行法制を説明してその知識を与えるのが目的であると学生一般は考えていた。これらの講義を通して法学的なものの考え方を教えるのだということを、意識的に気づくようにはほとんどならなかったのは勿論、現行法の講義と同時にローマ法、法制史、法理学、外国法等の講義を与えられても、それと現行法の講義との間にどういう開係があるのかというようなことは全くわからず、また十分教えられもしなかった。殊に外国法のごときは、外国人が先生であった関係もあって、一般の学生にとっては甚だ苦手な科目で、学校では特に外国法奨励のために成績の良い者には賞金をくれたりしていたにもかかわらず、結局この科目も、暗記の対象である以上にはほとんど何らの教育価値もなかったように思う。

 大学で習ったことそれ自身がそのまま役に立つのではなくして、むしろそれを忘れてしまった頃に初めて一人前の役人や会社員になれるという言葉も、法学教育の真の目的を理解してみれば非常に味わうべき言葉で、学生はもとより、現に法学教育に従事している人々にとっても深い教訓的意味を持っている。大学で教えられた知識がそのまま実際の役に立たないことは、ひとり法学教育に限ったことではない。しかるに、法学の場合に限って右の言葉が特に意味を持つように考えられるのは、従来の法学教育それ自身に欠陥があるからであり、しかも学生が一般にそれに気づいていないからである。現在の法学教育は一般に、主として現行法の知識を与えるという形で行われている。そして学生は一般に、かくして与えられた知識を消化することに全力を挙げているから、法学の教育もしくは学習は、結局現行法を理解し、記憶することを目的とするように考えられるけれども、実を言うと、かくのごとき教育もしくは学習を通して、学生は法学的のものの考え方を教え込まれるのである。そして学生が卒業後職についてから実際上役に立つのは、そのものの考え方にほかならないのである。無論、現行法を知らずに、考え方だけを抽象的に習得する訳にはゆかない。しかし、現行法の教育も、究極においては現行法そのものを教えることを目的とするのではなくして、現行法の理解を手づるとして法学的のものの考え方を会得せしめようというのがその目的である。そしてかくのごとくに考えればこそ、大学の法学教育で現行法のほかに法制史や外国法を教える意味もわかるのであり、現行法の教育としても、もっと目的に適った教え方があるのではないかというようなことも、考え得るに至るのである。
 大学で教えられたことを忘れた頃に初めて一人前の役人や会社員になれるというのも、実を言うと、大学で授けられた知識を手づるとして卒業後実務上の修練を重ねた結果、大学では無意識的にしか習得しなかった法学的の考え方が成熟したことを意味するのであって、大学教育が初めから全く無価値であったという意味ではない。しかし従来大学の法学教育には、一般にこの理合が十分に意識されていない。少なくとも、学生にそういう理解を与える努力が意識的に行われていない。そのため教育と学習の能率が著しく阻害されているように、私は考えるのである。

 かくのごとく、法的正義観は、個々の場合に裁判官が法規の解釈をするについての態度を決定する上に重要な働きをしている。学者の法規解釈が人によっていろいろ違う原因も、多くの場合、各学者それぞれが違った正義観を持っていることにあると言うことができる。法規解釈が純客観的に、無目的に行われるということは事実あり得ない。解釈は、結局技術であり、手段であるにすぎないのであって、それを使うのは人である。従って、その人がいかなる正義観を持っているかによって解釈が違ってくることがあり得るのは当然のことである。
 そうだとすると、いやしくも法学を学ぼうとする者は、単に法規を形式的に解釈する技術を習得するだけでなく、同時にその技術を使うについての指標たるべき法的正義観の涵養に力めなければならない訳であるが、かかる正義観の涵養はどうすればできるのか、現在の法学教育はその点について実際どういうことをしているか。
 九 それには、大体三つの方法がとられていると私は思う。
 第一は、講義なり教科書で法令の解釈をしてみせている間に、教師や著者は――表面上それを口にしないけれども、実は――それぞれ一定の法的正義観に導かれながら、解釈技術を駆使している。彼らはその正義観を特に一定の形式で表現していないけれども、実際には各自それぞれ一定の正義観を持っているのが当然であって、それが自ずから彼ら各自の解釈態度を決定し、解釈となって現れているのである。だから、学生は解釈の形で法令の知識を与えられている間に、一面、解釈技術を習得すると同時に、他面、知らず知らずの間にその教師なり著者が解釈の指標として持っている法的正義観を教え込まれることとなるのである。
 第二は、解釈法学と別に、法哲学というような形で法思想の教育が行われ、その教育を通して法的正義観が理論的に教えられているのが普通である。現在我が国で行われている法哲学の講義においては、先ず第一に法思想史が教えられているのが通例であるが、それは学生に広く法思想の変遷発展した歴史を教えて、彼らが自ずから自己の法思想に批判を加えてその法的正義観を養うことに役立つのである。次には、教師なり著者が自己の抱懐している法的正義観を理論的に展開してみせるのを通例としているが、これによって与えられる思想的訓練が、実際上法令解釈の態度にまで直接影響を及ぼすことは、従来の実情から言うと、むしろ稀である。殊に、法令解釈の具体的体験を持たない学者の法哲学には、そういう傾向が強い。
 第三に、明治このかた我が国の法学教育においては、一般に法史学と外国法が教科目に加えられているが、それらが、教育の主要部分をなしている解釈法学といかなる関係に立つかについては、時代によって考え方の変遷が認められるのみならず、現在でも、学者によって考え方が違っているように思われる。理想の法学体系を考えてみれば――後に述べるように――、法史学および比較法学の研究を通して与えられる法および法に関するデータを豊富に持つことは、我々の法に関する視野を広めるとともに、法的思惟を深めることに寄与し、それがやがて解釈法学にも、また、立法上にも非常に役立つこととなるのは勿論であるから、これらの研究および教育を、もっと法学全体との関係を考えて根本的に考え直してみる必要があるように思うのである。

末弘厳太郎の法学とは何かを iBooks で

末弘厳太郎の末弘厳太郎全集を iBooks で

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170621#1498041336
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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20140902#1409654998

憲法学教室 第3版|日本評論社

4784–170602 SONYのICレコーダ「ICD-TX650」を襟に – shiology

shioがレコーダを使う目的はただ一つ。自分の授業を録音するため。

学生たちに問いかけ、学生たちが答え、学生たちの疑問を喚起し、学生たちが質問をし、学生たちの興味を呼び起こし、「?」を引き出したうえで、shioが思考手順を示し、学生たちが自分で思考する手順を学生たちと一緒に辿り、学生たちが自分で解(快)にたどり着けるよう導くのがコーチとしてのshioの役割であり、それが教室で行うべき「授業」だから。

そこで授業の記録が欲しい。アドリブは一度きり、オンリーワンだから。


記録の一つは学生たちのノート。学生たちが共同で[Scrapbox]に記録するノートがありがたい。もう一つが音声の録音。聞き返すことはほとんどないけれど、記録としては保存したい。


そのため、レコーダを使う。最近ではiPhoneボイスレコーダを常用していますが、やはり教卓に置いたiPhoneでの録音には限界がある。shioが教室内をあちこち歩き回っているので、音声が録音できない場合があるからです。


そこでレコーダを身に付けたいと思うのですが、なかなかしっくりくるモデルがありませんでした。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170620#1497956142

4785–170603 授業のテキストもレジュメもScrapboxがいい – shiology

Scrapbox - チームのための新しい共有ノート

4528–160921 macOS Sierraで親指シフトを実現する方法 – shiology

4535–160926 macOS Sierraでも親指シフトを実現するLacailleがver.2.1.1に

最近また「親指シフトって何ですか」というご質問をよく受けるようになりました。

「いまだにローマ字入力で消耗しているのですか?」といったところでしょうか。

shioは23年間ローマ字入力した後、2011年4月1日に親指シフトに転向しました。

http://www.yuhikaku.co.jp/static_files/Hogaku_Seminar442.pdf

#勉強法