さらに言えば、「仕事の出来」はある程度客観的に見ることができるけど、「人格」はその判断基準すら定かでないのでその判断は主観的なものにならざるを得ない。だから、人を「人格」によって判断しようとする社会は、アンフェアで恣意的なものになりやすい。 https://t.co/SvOJF4pTB9
— Kan Kimura (on DL) (@kankimura) 2017年6月25日
「アンフェアで恣意的」かどうかは判断できるわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170621#1498041325
#反基礎づけ主義
およそ物事について人間は判断できないという懐疑的な議論にたいして、それを言うやつだって崖のそばでは落ちないように気をつけるんだから、転落は良くないって判断していて、つまるところ懐疑的な結論を本当には信じていないんだ無視無視ってアリストテレスが言っていて強い(『形而上学』4巻4章)
— Kuni Sakamoto (@kunisakamoto) 2017年6月25日
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170504#1493895460(性善説 > 四端の心)
#哲学部
日本人に「公正」概念がないだって?: hamachanブログ(EU労働法政策雑記帳)
そもそも、ヨーロッパだって「公正」ははじめから法学や思想の言葉ではなく、現場の市井の人々の、あいつがあれほどなのに俺がこれだけなのはなんなんだ、という現場感覚(それを「モラルエコノミー」と呼ぼうが呼ぶまいが)に根ざした言葉なのであってみれば、それと同じ次元の不公正を怒る根拠となるある種の公正感覚がないなどというわけはありません。
そういう不公正を怒り、自分の考える公正さを実現すべきと感じる感覚自体は、別段ヨーロッパ由来でも何由来でもなく、およそ様々な人間が共存する社会ではどこでも存在するものでしょう。