歴史が二十世紀に近づくにつれて、人間は内にも世界を持つことを忘れ、周りを取り囲む外の世界にだけ関心を集中するようになる。でも、この私たちの中にある、内なる世界も同じように実在するのです。 『MOE 1993年2月号』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月11日
世界の文化はどれをとっても、人間の内的世界に従って外的環境を作り上げようとする試みから成り立っています。例えばゴシック様式の聖堂は、内なる真実の投影であるし、ギリシアの神殿や中国の仏塔だってそうです。 『童話の森通信』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月11日
町の真ん中にはもはや聖堂ではなく、銀行が建っています。我々を取り巻くものは、全て―最近ではね―内なる真実が外部へと吐露されたものではなく、機能性や権力争いの産物になっています。 『童話の森通信』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月11日
舞台というものは技を見せるところで、素のままを見せるべきではないんです。馬や鹿や木々ではなくて、馬や鹿や木々の「象徴」を見せなくてはいけないのです。このところ、現代演劇では、人工的な技が日常生活的なものに変わっている状況が見受けられますが、まさに非芸術的です。『童話の森通信』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月11日
上手な役者はペルソナとなり、仮面となります。まさに、そのことによって初めて、彼は観客に自己同一化を可能にさせるわけです。すなわち、観客は、その仮面の背後の空所を、自分の自我で満たすことができるのです。観客は、その同一化を、いわば外部から体験します。 『ファンタジー神話と現代』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年3月13日
読者は本の中の黒インキの文字を読んで、心のなかでその情景を思い浮かべねばなりません。心の中で言葉を聞かねばならない。読みながら、本当はその言葉を一緒に話さなければならないのです。これは他のなにものにも代えがたいある親密さ、近密さなのです。 『MOE 1993年2月号』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月11日
幼さと幼稚さとを区別しなければなりません。人間の中の幼さは、感動でき、自発的で、経験に開かれた、もっと進化する能力です。人間はこの幼さを本来決して「克服」すべきではありません。それに対して幼稚さは、大人に現れるとき、ちょうど停滞し、発展しない、硬直したハビトゥスです。
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) 2017年7月11日
「男はみんな5歳児である」と思って生きれば、多くの問題は解決する | DRESS [ドレス]
「この5歳児の幼稚で未熟なヤツめ!」と思うのではなく、「5歳児みたいに、自分の気持ちに素直で、やりたいことに突き進む純粋さがいいね!」と思って温かく接してあげること。
#父権主義