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個人に酷なことも多かった日本の組織だが、一方で、個人を矢面に立てずに守ってきた側面もある。我を主張せずに組織に埋没するのは、それはそれで心地よい生き方でもあったのだろう。だが、それが組織の非効率を生んできた。働き方改革は、そのような日本の組織と個人のあり方を変える、またとない契機だと思う。

私が社会に出て最初に所属した「財務省」という組織は、驚くほど「家族的」だった。入省してすぐに、私はその洗礼を受けることになる。

一事が万事そんな感じだった。新人は、初任給が出るまでお財布を持っていく必要がない。ランチはすべて先輩が奢ってくれる。夜飲みにいくと「これで帰って」とタクシー代を渡される。ひとつ上の先輩がお兄さんで、課長は父親のような存在。財務省は、そんな家族的な組織だった。


温かみの反面、真綿で首を絞められるような閉塞感も覚えた。


ご存知のとおり、霞が関においては「キャリア制度」が敷かれている。登用時の試験によって?種、?種、?種と職種が分けられ、?種は将来の幹部候補として入省する。?種に合格した私は、財務省という「家」の中で厳しくも人情を以て鍛え上げられ、将来は部下を率いてお家のために尽くすことが求められる。


この将来に向かってしっかりと敷かれたレールに、私は疑問を持つようになっていった。卒業時の学業成績が良かったがために?種キャリアとして登用されたが、政治家と渡り合い、部下に指示をして省を率いていく仕事が、自分が向いているとは思えなかった。社会に出て初めて、そういう現実を突きつけられた。


財務省は、おそらく多くの人がイメージするよりずっと柔軟な組織だ。個人のワガママもできる限り聞いてくれる。最終的に家の秩序と家族の調和を乱さない範囲という限定付きではあったが。


そのうち、組織よりも個人として働くほうが自分には向いていると感じた私は、財務省を辞めて弁護士になりたいという、キャリア官僚として省に期待される役割から大きく外れる希望を口にした。それでも、無下に叱りつけられることはなかった。


「弁護士なんてのは“口も八丁、手も八丁”の仕事だと聞いている。お前に本当に勤められるのか?」。財務省をやめたいと相談する私の前で、心配そうにそう口にする財務省幹部を見て、「パターナリズム」、つまり「家父長主義」という言葉が浮かんだ。


「強い立場の者が弱い立場のものを慮る」ことを意味するこの言葉は、同時に、「本人のため」ならば個人の意志に反して干渉することと同義でもある。そうか、このジリジリとするような焦燥感は、個人の自我や自立が許されないことによるものだったのか――そう気づいた私は、財務省をやめることを決めた。

働き方改革」が叫ばれるようになった昨今、私はあのときのことをよく思い出す。


個人が本当にやりたいと思う仕事に取り組める社会にしなければならない。自分に何が向いているかなんて、働いてみないとわからない。だからこそ、その後のキャリアを自分で選べるような柔軟性を、社会に残さなくてはいけない。


自分に合った働き方で社会に貢献していくことこそ、効率性への近道だと、私は思う。“適材適所”という言葉があるが、どんな所で働くにしても、それぞれに力を発揮しやすい働き方というものがあるはずだ。それが許されるのであれば、人材のミスマッチや意欲の低下はかなり少なくなるのではないか。

家族型組織の問題点というのは、個人が自分の人生に関する自主的な判断をしなくなってしまうことにある。「君のためだ」という家父長的な意見には一理あり、はじめはそうやって会社に押し切られる。そのうち、徐々に会社が自分に何を望むかが判断基準になっていく。会社の価値観が個人を侵していき、それに従うことに疑問を覚えなくなる。


この過程はきわめて自然で、そこに強制などない。これが家族型組織の真の恐ろしさだと思う。

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#山口真由