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そんな私が、たまたま先生の紹介で、赤字続きの会社に入ることになった。もともと不平があったところに、ますます不平の種をもらったようなものです。


しかも、同期はみんな不平をこぼしながら辞めていったのに、私だけは取り残された。もう逃げるところがない。そこでひらきなおって、考え方を180度変えたわけです。


その頃、研究室の課長から「この会社は送電線用の碍子をつくっているけれども、それだけではいつまでも続かない。やがてエレクトロニクスの時代がくる。高周波の絶縁性能に優れた新しいセラミックス材料を開発したいと思っている。君にその研究を任せる」と言われて、たった一人でそれを手がけることになりました。たいした文献があるわけでもなく、アメリカの論文が2つ、3つあるばかりでした。


しかし、もう逃げるわけにはいきませんから、私はその研究に没頭することにしました。研究に没頭し始めると、寮に帰る時間もだんだん惜しくなってきて、寮から鍋や釜などの自炊道具を研究室に持ち込み、実験が終わったらそのままそこでご飯を炊いて食べて、椅子の上で仮眠をとる、という毎日を過ごすようになりました。そうやってまじめに精魂こめて打ち込みだすと、少しずつ成果が出るようになったのです。成果が出るから、自分でもおもしろくなる、おもしろくなるからさらに打ち込む。


そのうち上司もほめてくれるようになり、その話が役員にまで伝わって、わざわざ役員が研究室まで訪ねてこられては、「君が稲盛くんか。すばらしい研究をしているそうだな」と声をかけてくれるようになる。そうなるとますますおもしろくなって、ますます頑張るようになる。


そのように、よい方向に転回していったのです。

私が「辞める」と言ったのを聞きつけて、部下や、私の父親と同じぐらいの当時の管理部長も一緒に辞めると言い出しました。


せっかくここまで技術を培ってきたのだから、知り合いの方に頼んでお金を出してもらい、新しい会社をつくろうということになり、1959年に、「京都セラミック」という会社が資本金300万円で設立されました。私がちょうど27歳のときです。

創業と同時に20名の中卒を募集し、28名で会社が始まったわけですが、ああしていいか、こうしていいかと、何をするにも、みんな私のところに相談に来るわけです。


すると私は、「それはいい」とか、「それはいけない」などと言わなければならない、つまり、判断をしなければなりません。


判断をするには、判断のための基準、座標軸が私の中になければいけない。座標軸とは何かというと、それは私が持っている考え方、哲学です。


好き嫌いでものごとを判断することもできますが、一つ判断を間違うと、会社は倒産するかもしれない。そのときに私は「判断には、正しいものも間違ったものもある。そうすると、人生とは、その節々で下した判断がインテグレートされたもの、集積されたものなのだ」と気づかされたのです。


「たとえば、10の判断をするときに、そのうちの9まではいい判断をしたけれども、最後の1つを間違ったために、すべてをダメにしてしまうことだってあり得るだろう。そう考えると、ものごとを判断するということは、たいへんな責任を伴うのだな。では、その判断基準はどこへおけばいいのだろうか」と悩みました。「親戚に誰か偉い人でもいて、相談にのってもらえたらいいのに」などと思いましたが、そのような人もおらず、私は困り果てて、先ほどの西枝さんに相談に行きました。


そうしましたら、西枝さんは「稲盛さん何を言っているの、私がいるじゃないか。私に相談しなさい。なんでも教えてあげるから」と言ってくださいました。


西枝さんは、当時、宮木電機製作所という会社の専務をつとめておられて、確かに立派な方ではあったのですが、私は生意気なことに、そんな立派な会社でもないし、西枝さんの判断に任せて、本当にそれでいいのかなあと、助けてもらっておきながら思っていたわけです。


そして、「結局、自分で考えるしかない」と思うようになりました。


そうは言っても、知識も経験も何もありません。ひらきなおって、私は、子どもの頃、両親に叱られたり、先生に怒られたりするなかで学んだ「人間としてやっていいこと、やってはならないこと」、それで全部判断をしていこうというふうに考えたのです。


以来、この「人間として何が正しいのか」という考え方を心の座標軸にすえて、私はこれまで経営を行ってきました。

Friendly Sports:君子は義に喩り、小人は利に喩る。(くんしはぎにさとり、しょうじんはりにさとる)

王道(おうどう)とは - コトバンク

仁愛(じんあい)によって統治する政道。力による覇道(はどう)に対する。中国、戦国時代の儒者である孟子(もうし)が唱えた。当時の諸侯は武力によって他国を圧倒し、天下に号令できる覇者になることを求めていた。しかしこの武力による征服・支配では民心が離反し、結局は国を滅ぼすとして、孟子はむしろ仁愛によって民心を帰服させる王道こそが天下統治への道であるとした。領土や軍隊の大小よりも、民心の把握いかんが統治の要諦(ようてい)であるとした。孟子のこの議論は、諸侯の欲望を踏まえたうえで仁愛の徳治を説くものであった。この王道を支えるのは功利の念ではなく仁義(じんぎ)の心である。そして堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)、湯(とう)、文王、武王らの古(いにしえ)の聖王は皆この王道に拠(よ)っているとした。孟子の王道と覇道の峻別(しゅんべつ)は、「王覇の弁」として長く儒家の主要な主張の一つとなった。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171010#1507631758
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171009#1507545846
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171005#1507199828
http://d.hatena.ne.jp/d1021/20170829#1504004046