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これは、外務省が20日に公開した外交文書で明らかになりました。
それによりますと、1986年11月、当時の中曽根総理大臣は、2か月前の韓国訪問に続き、中国を訪問し、胡耀邦総書記と会談しました。


この中で、中曽根総理大臣は「先の訪韓の際に、韓国の首脳から、中国との国交、それに至らぬとしても、経済文化など民間の交流の拡大を希望していることを中国政府に伝えてほしいと言われた」と述べ、中国と韓国の国交正常化の橋渡しをしようとしていたことが記されています。


さらに、中曽根総理大臣は、日中間で国交がなかった時代に貿易の窓口となる連絡事務所を両国に設置する形で行われたLT貿易について触れ、「通商代表部ならなおいいが、LT事務所のようなものを中韓の間で設置したいということだった」と述べ、具体策を示していました。


また、中曽根総理大臣は「中韓の間にLT貿易のようなものができれば、日朝間に同様のことをすることができる。これによって、北朝鮮北極海のほうに向かせず、われわれのほうに向かせることができる」と述べていて、将来的には日本と北朝鮮の間でも同様の仕組みで関係改善を図る意欲を持っていたことがうかがえます。


これについて、日本の政治外交史が専門で北海学園大学の若月秀和教授は「相互に連絡事務所を置くのは、国交正常化への一里塚であり、実際に6年後の1992年に中韓が国交正常化していることを考えると、非常に感慨深い。中曽根総理大臣は、日朝の国交正常化については長期的な布石として考えていたのではないか」と述べています。

中曽根元総理大臣は、平成24年9月に行ったNHKの取材に対し、「韓国側から中国との関係を『うまくやってくれ。とりなしてくれ』という話があった。中国側は理解してくれて同じ気持ちだったけれども、北朝鮮を抱えていることで日本とは立場が違う。そういう意味ではデリケートな要素があったと思う」と述べました。

日本外交を問う国際政治学の論客|若月 秀和|北海学園大学の研究力

1980年代後半の外交の混迷と安倍外交


中ソ対立と日米安保という二つの条件に支えられ、中曾根氏は華々しい首脳外交を展開。


「西側の一員」という旗印を掲げながらも、結果的には「いずれの国々とも良好な関係を保つ」という、「全方位外交」を実質的に達成していたと若月教授は見ています。


今日の安倍晋三首相も、「中国脅威論」が取りざたされる中、中曾根氏がかつてソ連に対して行ったごとく、中国を取り囲むかのように精力的な首脳外交を重ねています。しかし、中国を牽制しつつも、巧みに交渉のテーブルに引き出して関係改善を図るような複眼的な思考が安倍氏に存在するのかについて、「包囲網の形成が自己目的化しているように見える」と若月教授は疑問を投げかけます。


ちなみに、1980年代中盤以降、中曾根氏は米ソ関係改善の趨勢に立ち遅れぬよう、対ソ関係打開を積極的に試みます。しかし、官僚組織は「新冷戦」の思考枠組みにとらわれがちであったし、おりからの日米経済摩擦への対応で忙殺されるまま、1987年に退陣。後継の竹下氏は官僚組織に依拠して外交を展開したうえ、消費税やリクルートなど内政の混乱で消耗し、日本外交は徐々に戦略性を欠いたものになります。竹下内閣が崩壊した1989年には中国で天安門事件が発生するとともに、中ソが和解して、冷戦それ自体も終焉し、対ソ牽制をもとに日米安保日中友好とが並立できた時代も終わります。日本外交にとって、より困難な時代の始まりを迎えます。


硬直したナショナリズムや情念がいかに対外政策を阻害するか、そして目前の国際状況を固定的にとらえないことの重要性が、まさに過去の日本外交の示唆する点だと若月教授は語ります。現在における米中両国間の力関係の変化や、緊迫化する朝鮮半島情勢を見ると、その重要性を痛感せざるをえないと教授は指摘します。

若月秀和 - - 冷戦の終焉と日本外交 - 千倉書房

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http://d.hatena.ne.jp/d1021/20171216#1513421128