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 江戸時代の初期に、日光東照宮の造営に関わった腕のいい宮大工たちが、日光街道の宿場町であった「粕壁」に住み着いたのが今の春日部の始まりと言われる。彼らは、作った長持や指物を船に乗せ、現在の大落古利根川(おおおとしふるとねがわ)を下って江戸に向かい、着物をたくさん持っていた江戸の富裕層に売っていた。


 昭和の初期には、春日部一帯で数百軒もの桐箪笥職人が集まる一大産地となる。大塚家具も、桐箪笥職人だった私の父、大塚千代三が1928年(昭和3年)に開いた工房に創業のルーツがある。自宅と工房は、現在の春日部駅前にあった。


 私は、11歳年上の兄と5歳年下の弟の3人兄弟の真ん中だ。兄は父の技術を受け継ぐべく桐箪笥職人になった。


 父は、職人仲間からは「名人」と言われるほどの腕のいい職人だった。幼かった頃は、工房で父の仕事を眺めているのが本当に好きで、飽きることがなかった。鉋で桐の板が薄く削られる不思議さ、その木目の美しさ、かぐわしい香り、そしてなんと言っても名人と呼ばれるだけのキビキビとした無駄のない動き。家具にまつわる知識は、すべて父を見ていて覚えたものである。


 小学生になると父の仕事への関心は一層に強くなった。良い材料とはなにか、それを見極めるにはどんな眼力が必要なのか、良い材料を安く買うにはどうしたらよいか等々、子どもながら一つひとつ英才教育を受けているようなものだった。


 小学校の高学年になると、すでに工房を訪ねてきたお客さまの相手をしていた。生意気にもお客さまに桐箪笥について蘊蓄を垂れ、商品を説明する。そんな私を父が嬉しそうに見ているので、こちらもまた調子に乗ってやる気を見せた。


 兄が職人になっていたので、自然と「私は店の方の担当だな。兄弟が力を合わせていけば父の工房はもっと繁盛するだろう」と思うようになっていた。そして父もまた、私には職人としての才能はないと見抜いていたようで、お客さまの対応など、営業や経営に目を向かせるようにしていたようだった。


 学校の勉強をしていたのは中学校の1年生ぐらいまでだ。すでに商売が中心の生活で、それがまた楽しかった。店の経理も任されるようになり、中学2年生のときには初めて決算書をつくったのを憶えている。簿記の貸方/借方の分類など分からないが、元帳と実際の製品やお金の流れを突き合わせていくと、自然と貸方/借方の考えが理解できた。


 中学校の同級生からは、「大塚が授業を聞いているのを見たことがない。いつもそろばんをはじいて帳簿の計算をしていた」と言われたほどである。

 工房の経理を任されてやり繰りに格闘していると、子どもながらにいろいろなことが分かり、また疑問に感じるようにもなる。まず感じたのは、「お金の心配をしていないと商売は続かない」という素朴なものだった。それは「お金の心配をしないで商売ができるようにならないとダメだ」という思いにもつながった。


 大塚家具も、創業からリーマンショックまでの約40年間は一度も赤字にしなかった。お金の流れをきっちりと管理して赤字にせず、内部留保を厚くすることに専念した。第2創業となった匠大塚は、規模はまだまだだが、準備した資金の範囲内で想定通りに進捗している。


「お金の心配をしないで商売をしよう」というのは、私が経営していた当時の大塚家具の出店戦略にも直結していて、「コストを抑えた出店方法」を模索し、それが高収益につながるビジネスモデルに結実した。その詳細は次回に述べようと思う。


 もう一つ、経理を見ていてつくづく考えさせられたのは、「良い品を安く売るのはなんと難しいことか」ということだった。

 純朴な誠実さとでも言うべきか、良いから高いのではなく、良いものだからこそ安く届けるべきだと考えてしまう。


 これも結局は、後の商売の大きな鉄則になっていく。現在の匠大塚でも、真っ先に掲げているスローガンが「確かな価値との出会い」だ。品質の良い製品を、お客さまが納得できる価格で提供するには、どんな仕組みをつくるべきなのか。ずっと考え続けてきたことだった。


 当時は答えが分からなかったものの、父の作業をじっと見て「箪笥の部位によっては、その部材は使わなくても品質に問題はないのではないか」とか、製材工場に出かけて行って「半端な材料でも使いようがあるし、場所によってはこちらの部材を使った方が安くかつ品質もよくなる」などと、一人で仮説を立てては父や兄に話していた。

 そして、きちんと説明して納得してもらえれば買ってくださった。名人の父がつくる桐箪笥がどれほど良いもので、「だからこそ、この価格なのです」と胸を張れば、お客さまも納得して買い、喜んでくれた。「価値を伝えるためには十分な説明がいる」と、このときに学んだ。

 それが伝わらない時は、製品のどこをよくしたら良いのか、また自分の説明のどこを改めればお客さまに納得していただけるのか。それを考え続ける。


 また、私たちは家具を売ることによって給料を得ているが、それは「説明を含めて、その家具の価値をご納得いただけたから」ということだ。心底、そう考えられるようにならないと、「売りたい、儲けが欲しい」という思いが表に出てしまい、決して実績にはつながらない。


 余談になるが大塚家具時代には、お客さまや、お客さまのご家族と結婚する社員がたくさんいた。つまりお客さまが気に入ってくださるのだ。それぐらい心を込めてご案内をしなければ、良いものの価値は伝わらない。

 独立する前からのことだが、婚礼家具が売れるのは春と秋だけだった。夏はまったく商売にならない。するとメーカーさんは、どうしても在庫を抱えてしまうことになるから、私は父の許しを得て夏になると、良い家具であればメーカーさんからどんどん仕入れた。製品を持っていれば秋には必ず売れたからだ。


 また、当時、春日部の信用金庫が地場産業発展のために大変ありがたい取り組みをしてくれていた。家具の町の信用金庫なので、貸金の担保となった家具を置いておく自前の倉庫を持っていたのだ。その倉庫に家具を持っていくと、相場の6割ぐらいの評価でカネを貸してくれた。その融資金でまた在庫を買い集めていく。そして秋になるとすべて売り切り、借金も返すのである。

 大手ネット通販会社を見ても、彼らの強大な競争力の一因には「在庫を正しく持っている」ことがあるだろう。在庫を持っているからこそ即日発送という満足度の高いサービスを提供でき、早い決済も可能にしている。まして専門店として、彼らに負けないサービスを提供しようとすれば在庫を持つことこそが競争力の源泉になる。


 もちろん何度も書くが、それができる資金管理と余裕が前提になる。結局、商売は、商品づくりも営業力も資金管理もすべてが関連した中で競争力が生まれるのだ。

http://d.hatena.ne.jp/d1021/20180109#1515494448