ネットの中の会話は幽霊との会話のよう。言葉が肉体から切り離されている。その時の気持ちによって違う意味に読めてくるので、結局何を信じればいいか分からない。
— choloatier (@choloatier) 2018年2月14日
人間はどんどん不確実性のなかでもがいて思考することやめ、インスタントに何か「形式的なよすが」にすがるようになる。それが実質的に本当のことだろうが、全くの幻想だろうが関係ない。「よすが」になればなんでもいい。それが今日、カタカナで「エビデンス」と言われるものの根底的な意味ですよ。
— 千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中 (@masayachiba) 2018年2月14日
いま、事実とは何かとか、実証主義といったことは、哲学的にそのステータスを考え直さねばならない状況にある。ところが一部のリベラルは、事実は事実だというのを「恫喝」するという方向に行っていると見える。ならば、やってることがポストトゥルースの連中と同じ。
— 千葉雅也『メイキング・オブ・勉強の哲学』発売中 (@masayachiba) 2018年2月14日
今気づいた単純なこと。ツイッターで人と繋がりやすくなったように見えて、実際に表現欲や知識欲が満たされる場所はないということ。単純にもっと考える訓練をしたい、哲学などの古典を誰か先生に教えてもらいながら時間をかけて読み、書く場所がほしいと思っても、そういう場所が見つからない。
— choloatier (@choloatier) 2018年2月14日
あるとしたら宗教に絡んだところか、何かの運動に絡んだようなところで、純粋に勉強したいと思う思いをかなえられそうな場所がなかなか見当たらない。単発的な講演とかではなく。イメージとしては昔の私塾のようなもの。言論カフェがある意味でそれに近いのかもと思うけど、ちょっと違う。
— choloatier (@choloatier) 2018年2月14日